天正15年(1587)秀吉の国割により龍造寺領に編入され、
慶長13年(1608)鍋島直茂の兄の豊前守信房の所領となり、
明治2年の版籍奉還まで神代鍋島領は続いた。
現在は国指定重要文化財となっている。
慶応元年(1865)に完成した長屋門と、
御北と呼ばれる万延元年(1860)建築の隠居棟と明治、
大正期の近代和風の書院座敷が融合した屋敷である。
歴史的な背景は不明。神代城との関係は切っても切れないものだろう。
長崎県中近世城館跡分布調査報告書の地図からすると尾ノ上神社と思われる。
舌端状の台地の先端部に位置し、神社の境内の一番縁は確かに土塁のようにはなってはいるが。
遺構は残っていないと思われる。
平安時代末期永暦元年(1160)に日向太郎通良が城を構えて、平家に対し挙兵したために、
筑後守平家貞が追討使として肥前に入り、平定した。
元享3年(1323)には多比良六郎左衛門通世という者がいたことが分かっている。
観応3年(正平7,1352)に北朝方の九州探題の一色範氏が小俣七郎氏連を派遣し、
多比良七郎重通の城を攻め落とした。文和3年(正平9,1354)菊池武澄が北朝方から奪還した。
その後、戦国期には有馬氏に臣従した。(大系より)
現在の国見高校の正門の前の前に標柱があるだけで、遺構は何もない。
戦国時代には土豪空閑(古賀)氏の城であった。
畿内最古のキリシタン武士として知られる結城山城守の甥の、
ジョルジュ弥平治が天正15年(1587)宣教師追放令の時、
イエズス会宣教師オルガンチノと小西行長を頼り、小豆島に潜伏し、
その後、小西行長が肥後の領主になると、矢部城主になった。
関ヶ原で小西行長が敗死した後には、慶長7年(1602)有馬晴信に知行3千石で迎えられた。
この金山に教会も建て、平和な宗教的な生活を送ったという。
しかし、慶長17年(1612)有馬晴信が処刑され、息子の直純は禁教令に応じ、弾圧する側に回ると、
翌年弥平治も追放され、長崎に移ったという。
(大系・現地説明板より)
現在は小運動公園化されて所々石垣の跡らしい物があるくらいで、
北側の郭には十字架が立っている。
朝鮮出兵のための出城として秀吉の命で、
天正19年(1591)松浦鎮信(法印)が中心となり、
有馬晴信、大村喜前、五島純玄などにより4ヶ月で築城した。
秀長の家臣、本多因幡守正武が500人の兵を率いて、
慶長3年(1598)に至るまで7年間在城した。
朝鮮出兵終了後、破却された。(大系より)
現在は、城山公園となり、南西部から北側にかけ、石垣や枡形の跡が残る(左1〜4画像)。
また主郭には礎石も残る。
南東へ下る道にも石垣が残っているが、これは遺構でないのかよく分らない(右1,2画像)。
麓に松尾芭蕉の十哲の一人河合曽良の墓がある。
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