神代貴茂の弟の岡刑部貴明が城主だった。
天正12年(1584)龍造寺隆信が、有馬・島津連合軍に沖田畷で討死すると、
神代貴茂は有馬氏により多比良で謀殺され、ここも有馬氏に攻められ、落城、滅亡したという。
(大系より)
鍵峰城から近い。
南北に長い城址で、
北側の郭は畑となっているが、
堀切らしい跡が今も残る(最左画像)。
南側に行くと、杉林地帯で、ここにも堀切が残り(左2画像)、
その南側には切岸が数段よく残っている(左3画像)。
余り成形されていない尾根を南下すると、ややうっすらとなった堀切?(左4画像)があり、
南端に虎口らしい跡が残る(左5画像)。
城址の西側には石塁が多く残っており、遺構だろうか。
高田城を見つけ損ね、大河城を探して誤って南下したところで、
電動車椅子で移動中の古老に城址だと聞いた稲荷神社裏の城址らしき、
そうでないかもしれない山である。
稲荷神社裏を登った辺りは不整形で自然のままであるが、
尾根を南下すると、堀切または交通壕のくびれた部分があり(左3画像)、
石塁を伴った平坦地がある(左4,5画像)。神社の奥の院と云えば、そうかもしれない。
背後はすぱっと切れて後世に開発されている。
文治2年(1186)肥前綾部の綾部幸房は伊福・大河・伊古の所領を4男幸明に譲り与えた。
「大川文書」では嘉暦3年12月16日付「鎮西御教書案」によると、
鎮西探題から矢俣弥藤太・大膳弥太郎の両人が大河孫三郎幸継入道幸蓮が構築した城の破却を命じられている。
(大系より)
突端状の台地の先端に位置し、南側は墓地となっており、
その墓地から藪をくぐって入ってみた。
50cmくらいの高さの石塁がかなり残ってはいるものの、
果樹園の跡のような雰囲気もある。
全体に渡り藪化しているために遺構はよく分らない。
長崎県中近世城館跡分布調査報告書の地図に記載されている。
この伊古遺跡は縄文時代から中世までの遺物が出土しており、
なかでも弥生時代と中世が大半を占めている。
西郷氏や伊古氏関連と推測される。(現地説明板より)
現在は熊野大権現神社に説明板があるくらいで遺構らしきものは見当たらない。
肥後の菊池氏一族と推測される西郷氏が南北朝の頃には築城していた。
九州探題一色範氏が観応3年(正平7,1352)に小俣氏連に南朝方を攻めさせた時に、
閏12月17日に落城させた。(大系より)西郷次郎が城主だった。(現地説明板より)
現在西郷川に面した突端状の台地の上に位置し、
出丸の東側に説明板と登り口がある。
藪化した道を登って行くと、社があり、やり過ごし、
台地まで上がり、西に竹林を抜けると、
出丸と主郭を分断する、空堀と石垣を伴った土橋が残っていた。
150cmくらいの高さで築かれている。
藪だらけで大変だった。
鎌倉時代後期に築城されたと推測されるが、
神代氏自体の出自が不明のよう。
天正5年(1577)に「北肥戦誌」に初めて、
神代兵部大輔貴茂が表れる。龍造寺方に属し、有馬鎮貴と対立し、
天正12年(1584)沖田畷で龍造寺隆信が討死すると、
貴茂は神代城に籠城し防戦した。
攻めあぐんだ有馬氏は一計を案じ、
講和を条件に多比良城に貴茂を誘い出し、その帰りに謀殺した。
有馬氏の代官が置かれ、天正15年(1587)秀吉の九州征伐で鍋島直茂に神代領3千石与えられ、
鍋島陣屋が置かれるようになった。(大系より)
鍋島神社の裏手に位置し、東西を走る道路により、
南側の主郭と北側のそれ以外の郭に分かれている。
北側は畑になっていたようでだだ広い。
一方南側の主郭には、神代神社が鎮座しており、周囲に1m以上の土塁が囲繞しており、
切り立った崖上にあって下からは登って来られそうにない。
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