初代有馬経澄が建保年間(1231-19)に築城したというが定かでない。
天正18年(1590)晴信が石垣や階段を作り、内部の建物を改築したことがイエズス会の報告書に記される。
慶長19年(1614)直純の日向の県城への転封まで有馬氏の居城であった。(大系・現地説明板より)
20年振りの来訪であったが、世界遺産化のためなのか、
かつては藪っていたのが信じられないほど整備が進んでいた。
東側に安土城のように麓から階段が続き、脇に屋敷などがあったことが発掘で判明し、
階段は見やすいように展示されていた。(左端から左4)
いったん上まで登ると、最後に主郭のあった、小山があり、脇に神社がある。
主郭は意外に狭い。
北側の搦め手から下ると、浦口方向へ下る。
こちらも郭が山の尾根に続き、石垣がかなり残っている。
麓に出る所に、天正8年(1580)に設置されたセミナリオ跡の石碑がある。
古代に烽火と防人を配置した所という。
文禄・慶長の朝鮮出兵の際に、麓の大浦から出兵しており、
防衛上の要衝であった。(大系と現地説明板より)
河内に標識があり、車道をそのまま行けば、駐車場があり、入口となる。
最高所にある主郭からは礎石も見つかっている。
南側に下った二郭の周辺には石塁の跡なのか、石が転がっている。
南西側に尾根が続いており、植林されている急斜面の尾根を下ってみたが、
特に遺構らしい物はなかった。
応安5年(文中元年、1372)北朝方に属した大友氏一族の田原氏能が、
高来郡で蜂起した南朝方を討つために山名少輔次郎が大将として、
現地に来た際に築城した。その後、島原氏の一族び山田氏が城主となった。
(大系より)
現在は、山田城址公園となり、やや公園化されて、遺構としての側面が失われつつある。
主郭前に堀切2本を挟んで、郭が残る。
主郭の南端は櫓台だったのか最高地点で、
現在は赤い鳥居や祠がなどがある。
有馬氏譜代の守山氏が室町時代初期頃に築城した。
永禄6年(1563)守山宮内は有馬氏に背いて伊佐早の西郷氏や神代氏と行動を伴にした。
龍造寺氏が島原半島に勢力を拡大した際には軍門に下った。
その後、沖田畷で龍造寺隆信が敗死すると、島津氏に接収された。
天正15年(1587)秀吉の九州征伐の際に、守山氏が奪還した。
が天正17年頃神代氏同様に有馬氏に攻撃を受け、宮内は討死、落城し、守山氏は滅亡した。
(現地説明板・大系より)
現在、公園化されており、遺構らしいものはなく、守山氏を祀った祠がある。
南側は道路が貫通し遺構が削り取られたとか。
神代氏の家臣鍵峰七郎の居城だった。
天正12年(1584)龍造寺氏が有馬・島津氏と沖田畷で戦い、隆信が討死し、
ここも有馬氏に攻められ、落城した。(現地説明板より)
現在、国道251線沿いに説明板が立ち、
小高い丘は畑と民家が立っている。
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