万治3年(1660)3月3日築城を開始し、18年掛け、延宝6年に落成した。
金石からここへ移したのは、朝鮮通信史の来朝の際に、
金石城では西の浜から近すぎるからであるという。
明治維新まで使われ、明治11年陸軍の兵営となり、
現在も陸上自衛隊が配置されている。(大系より)
自衛隊の駐屯地となっており、もちろん中には入れない。
南側に当時の?石垣が残っている。
天正19年(1591)朝鮮出兵の際に、豊臣秀吉が軍監毛利高政に築城させた。
(大系より)
清水山山頂(206m)に一の丸があり、南側に虎口があり(上段左1,2画像)、西へ下る道へ繋がっており、
下ったところは堀切2本ある(上段左3画像)。中央部には櫓の跡がある。
一方、東の麓へは、2重の郭で虎口がある(上段右端画像)。
東へ坂を下ると、二の丸で、周囲を石垣で囲まれている。
東へ虎口があり(下段左1,2画像)、ここを下ると尾根道で、両サイドに石垣が残っている(下段右端画像)。
しばらく行くと三の丸で自然石が露出している。
享禄元年(1528)宗将盛は一族の盛治に池館を焼かれ、ここに築城した。
寛文9年(1669)21代宗義真が櫓を築いて改修した。
文化10年(1813)火災により大手の櫓門が焼失し、同14年に再建され、
大正8年に解体されたが、平成2年(1990)に再建された。(現地説明板・大系より)
櫓門が屹立し、他の目立った遺構は余りない。(庭園があるが入場しなかった。)
宗家菩提寺の万松院の近くに多門跡が残る(右端画像)。
日向太郎通良の後裔小浜氏累代の城であった。
有馬晴信の持ち城であった頃には、
ルイス・フロイスの「日本史」に「設備も悪く、貧弱な城」として記載される。
(大系より)
旧小浜神社の境内で杜絹山から海側に突き出た位置にある。
遺構らしい物はない。杜絹山へ車道を登って行くと、路傍に倒れた小浜城の木碑があった。
一応生垣に立てかけておいたが、再び倒れているだろう。
明応5年(1496)有馬貴純により築城されたというが、没年以降となり、
矛盾があり、定かでない。
(現地説明板によれば慶長4年(1599)〜慶長9年(1604)晴信の頃に工事したとある。)
その後、晴信の頃にキリシタン大名として栄えたが、
慶長14年(1609)岡本大八事件で晴信が処刑されると、息子の直純が継いだが、
わすか2年で日向の県城へ転封となった。
一時幕府領となった後、元和二年(1616)大和五条から松倉重政が入部した。
7年掛けて莫大な経費と労力の末に、島原に森岳城を築き、日之江城と原城は廃城となった。
その後、重政と勝家親子の厳しい年貢の収奪とキリスト教弾圧に、
寛永14年(1637)農民達が蜂起し、森岳城、肥後天草の富岡城攻撃の末に、
11月末に天草四郎時貞を大将に原城に立てこもった。
12月3日から2月28日まで、13万の幕府軍に対して持ちこたえた。(大系・現地説明板より)
世界遺産化のために案内板など撤去されたらしく、案内に乏しく、
先に南島原市有馬キリシタン遺産記念館に行った方が良かった。
原城のバス停から城址へ広い空堀跡を横切って入り、三の丸がある。(左端画像)
板倉内膳正重昌の碑がある。
その後、東への大手口の分岐と分かれ、西へ進むと二の丸跡で現在は畑となっている。(左2画像)
本丸手前北側には深くて広い空堀がある。(左3画像)
本丸は周囲は石垣で囲まれる近世城郭そのものである。
主郭には、天草四郎やクルスの石碑などがある。
主郭から西側には、天草丸と云う一揆軍の本戸但馬・柴田六兵衛率いる天草郡の2千余人が守備した出丸がある。
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