欧州少年使節の4人のうちの1人、千々石ミゲルの父親の居城。龍造寺氏に落城 された。
島原の乱の原因の1つとして、松倉重政による、この島原城の建設が挙げられる。
延徳年間(1489〜92)に田平里城主の峰昌が、
その弟である松浦弘定との平戸・田平合戦の際に築城したと推定される。
その後、大内氏の斡旋で和睦し、平戸松浦氏の持城となった。
江戸時代にも平戸藩は番所を置いた。
現在、公園化され、貯水槽らしい建物があり遺構は感じられないが、
南側に数段の曲輪と石塁が残っていた。
源頼朝から下向を命ぜられた加藤左衛門重氏が、
建久2年(1191)に築城した云われるが、信憑性に欠けるらしい。
その後重氏は高野山に移ったと云われる。
城址は太平洋戦争時に砲台が築かれたり、その後の公園化もあり、
遺構は本丸の輪郭が残るだけである。
石塁が残っているがいつの時代か定かでない。
平安時代末期に源久が築城したと伝わる。
築城時期は、延久元年(1069)、嘉保2年(1095)、久安元年(1145)の説がある。
松浦氏の本城であったが、直の時に山寺城に移り、支城になったと推測される。
現地石碑には、その後、文禄の役の際に秀吉の命で改修されたと書かれている。
現在残る石塁(左端画像)は明かに豊織系のようで、発達した大手門や櫓台など、
文禄の役と関連性があることは否めない。
その一方、
本城より下の方には九州系の高さのない平積みの石塁も残っている(右端画像)。
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