武田信義が築城した。(大系より)
文禄元年(1592)に龍喜和尚が法城寺を開山し、一時神代へ移ったが、諫早領内で布教する許しを得て、
建立し、御堂を武田城跡に移した。(多良海道を往くより)
法城寺となっており、遺構らしい物はないが、湯江川のい西側にある天神ノ尾城と同様に、
多良山か伸びて来る尾根の先端部分、海道を押さえる位置にある。
16世紀後半に日高甲斐守信助が居城したといわれる。(長崎県中近世城館分布調査報告書より)
円形の主郭の周囲に横掘が巡り、石塁も残っている。
土橋も残る。藪で覆われて遺構が醜かったのが残念だった。
文明年間(1469〜87)に落城して、波多氏の持ち城となった。城主は不明。(長崎県中近世城館分布調査報告書より)
山の北側は土取りのためか削り取られている。
墓の横を少し藪漕ぎするとたどり着くが、一面藪に覆われて、切岸らしい跡と、
石塁の後の石が残っているのを確認できる程度だった。
平治年間(1159〜60)〜文明4年(1472)に使われた。
長田壱岐守平忠政が城主だったか。
(長崎県中近世城館分布調査報告書より)
道路のすぐ横にあり、アクセスしやすい。
一段高い主郭には石の祠が残る。南側に空堀の跡らしい物が残る。
天正期(1573-92)の福田氏の居城か。(『長崎県中近世城館分布調査報告書』より)
天正3年に福田大和守忠兼が築城したという。(現地説明板より)
祐徳院という社があり、その裏手にある小山が主郭だったようで、地元の小学生による説明板がある。
北側と東側には数段帯郭が残り、石塁が数段、綺麗に残っている。
麓からの取り付き場所も堀切のようになっているが、これは後世の手によるものか。
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