鎌倉時代初期に大井庄の地頭であった、大井宗家の本拠地であった。
文明16年(1484)村上氏に攻められ、落城し、大井氏は滅亡した。
その後、大井貞隆が城主であったが、武田氏の侵攻の前に落城した。
武田氏滅亡後、北条氏が支配しようとしたが、
形勢が不利になり、徳川氏と和睦し、撤退した。
その後、依田信蕃が落城させた。
北から、石並城、王城(県史跡)、黒岩城(県史跡)と呼ばれており、
それぞれ切り通しで区画されているが、
1つの城として機能していたのだろう。
東側を湯川が流れ、断崖となっている。
石並城は、墓地や田畑となっており、曲輪らしい雰囲気も残る。
王城は王城公園となり、遺構はほとんど残っていない。
道路を挟んだ南側にある、黒岩城は果樹園となっており、
地元の方の話によれば、平地化にする時にいろいろと遺物が出土したらしいが、
そのまま川に捨てられたらしい。ここもほとんど遺構はない。
岩村田藩である内藤氏が元治元年(1864)から築城を開始したが、
未完成のまま明治維新を迎え、終わった。
現在は公園と神社の境内となっており、
土塁らしい高まりがあるが、当時の物かははっきりしない。
現地に立つ石碑は立派である。
築城時期は定かでない。
天文16年(1547)頃は、
関東管領上杉憲政と親戚関係のある笠原新三郎清繁が城主であった。
周辺が武田信玄の侵攻の前に落城する中、和睦を蹴り続け、最後まで抵抗した。
上杉氏家臣高田憲頼も共に籠城し、上野からの上杉軍の援軍を待った。
が、事前に武田軍に察知され、小田井原で金井秀景ら3千の兵は、
板垣信方、甘利虎泰、横田備中、多田三八の軍に迎撃され、
1千余の戦死者を出して関東に逃げ帰ってしまった。
その討ち取った首を槍に剌して城下に並べた。
その報を聞いた籠城兵は落胆し落城した。
笠原清繁、高田憲頼親子も討死し、笠原清繁の首塚は城下を少し東側に行った、
田んぼの中に残っている。
住人も生け取りにされ売買されたという。
(大系、戦国大名城郭事典による)
志賀上宿にある、雲興寺(最右画像)の裏手から登山道がある。
誤って、少し東側の尾根伝いに登ってしまったが、
道は崖直下に至り、石塁など残っていた(最左画像)。
西へ周り込むと本道に出て、程なく、鞍部に出る。
鞍部より東へ行くと、堀切を挟んで、本郭まで曲輪が続く。
本郭には祠が残り、東側に堀切がある(左2画像)。
一方、鞍部より西側にも曲輪は続き、
石塁を伴った遺構が残る(左3画像)。
当時の志賀城は、現在の笠原城、志賀城、
高棚城のどれなのか定かではない。
平賀氏の支配下にあったが、文安3年(1446)頃平賀氏滅亡後は、
大井氏の居城となった。
永正年間(1504〜21)に大井美作入道玄岑により築城されたという。
その後、武田軍に落城され、
武田氏家臣上原伊賀守昌辰が入った。
武田氏滅亡後、天正11年(1583)徳川氏家臣依田信蕃により落城された。
(大系、現地案内板による)
上野に抜ける街道沿いにあるために境目の城として重要な城であった。
本丸周辺は草木が繁茂していた。断崖の上に築城されており、
城域はそんなに広く感じなかった。
大系の縄張り図を参考にしたせいか、
堀切や井戸跡を見損ねてしまった。
鎌倉時代初期に平賀義信が築城したと伝わる。
室町時代に入り、平賀氏は滅亡し、その後支配した大井氏も滅亡し、
天文9年(1540)以降武田氏の居城となった。
内山方面から林道経由で行くと標識も何もなく、
入口?を探すのに苦労した。林道から搦め手の曲輪を経由すると(最左、左2画像)、
本郭に至る(中央画像)。本郭、二郭、三郭と段を下って削平されている(左4画像)。
この山の斜面を細かく削平しては腰郭としており石塁も伴っており、
腰郭は無数に残っている(最右画像)。
西側にある大林寺山まで縦走してみたが、
この辺りは削平されているものの遺構は感じられなかった。
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