平安末期に片桐氏の一族名子氏が土着し、
その後非常時の備えとして築城し続いたが、
天正10年(1582)2月織田軍により落城した。(現地案内板より)
唐沢川と大名川に挟まれた河岸段丘上に位置し、
背後は堀切で断っている。また主郭は土塁で囲まれて城山稲荷社が鎮座している。
その周囲には帯曲輪が北、東、南に残る。
また堀切の反対側にある西郭は施設があって遺構はよく分らない。
片桐氏の一族大島氏により築城されたと推定される。
元亀2年(1571)伊那郡代秋山信友が武田信玄に命ぜられて改修した。
天正16年(1582)2月16日、飯田城を落城させた織田信忠率いる織田軍が寄せ、
日向玄徳斎、小原丹後守、武田信廉、安中氏は戦わずして夜中に逃げ落城した。
その後、廃城になったらしい。
天竜川の河岸に面し、西側にある巨大な三日月堀は圧巻である(左端画像)。
主郭、二郭、三郭と空堀(中央画像)、井戸(右端画像)も残っているが、つつじが植えられた公園として、
改修されており、いまいち迫力に欠ける。
南北朝の頃に松岡氏により築城されたと推測されている。
守護小笠原氏に従い、その後、小笠原氏の分裂に際し、
勢力を拡大した。天文23年(1554)に武田信玄の伊那侵攻の前に抵抗することなく、
軍門に下った。
天正10年(1582)織田軍の侵攻で、城主頼貞は信長に帰順し本領を安堵された。
天正13年小笠原貞慶に従い、保科氏の高遠に攻めようとしたことを責められ、
天正16年(1588)貞利は改易となり廃城となったと推測される
(『松岡城跡』松岡城址愛護会より)。
天竜川の河岸段丘の段丘を利用した城で麓から段丘の上まで遺構がよく残っている。
段丘の突端に本丸があり、そこから西へ五ノ堀(左端画像)まで5つの空堀が残る。
また五ノ堀の先には三日月堀が残っていたという。
一方本丸から東の麓にかけての斜面上には無数の曲輪が残っているようであるが、
森林や薮が多く、はっきりとはしない。
それでも構造等は掴めることができる。
前九年の役(1051)で敗れた安倍一族、貞任の2男仙千代が乳母に抱かれ、
市田郷に落ち着き、松岡氏が始まり、ここに居館を置いたとされるが、定かではない。
古城、城原とも呼ばれおり、松岡氏の一族か、家臣かの居城があったとされるが、
現在、樹齢千年という夫婦杉が立って、南側を堀だったのか、
小さな川が流れているだけである。
見通しの良さに欠けるために松岡氏の隠居城とも云われる。(現地案内板より)
河岸段丘を利用しており、本丸(左端画像)、二の丸、
三の丸がそれぞれ空堀で区切られてある。
三の丸から先は薮化している。
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