上原城主の諏訪信満が、文正元年(1466)頃、この地に居館を構えたという。
5代続き、頼重の時、天文11年(1542)武田氏に攻められ、
頼重は桑原城に逃れた。
その後、諏訪郡代となった板垣信方がここに屋敷を構えた。
以後、天正10年(1582)武田氏の滅亡まで諏訪統治の拠点となった。
現在、平坦地となっているが、家老屋敷と云われる郭跡が、
この平坦面のすぐ下にある(右画像)。
諏訪信満から5代、諏訪氏の本拠地であった。
天文11年(1542)諏訪頼重は武田氏に攻められ、
桑原城へと逃れた。
その後、板垣信方が郡代として入ったが、
同17年(1548)上田原での信方の戦死、翌年の反乱の後、
茶臼山城に拠点が移されたと、城郭大系に書かれる。
ともかく天正10年(1582)までは廃城とはなってなかったようである。
大河ドラマの影響か、来城者が多かった。
永明寺山の突端にあり、
中腹辺りから城内へと入る。
堀切があり、さらに本丸と堀切で離れたハナレ山と呼ばれる郭があり、
堀切がもう1本ある。本丸のすぐ下に物見台と云われる巨石があり、
本丸には土塁が残っている。
さらに北側の斜面には、郭の跡がよく残っている。
大手道は神社から屋敷跡へと続いており、
堀切の跡が残っている。
平成7年に3年の月日を掛け築城された。
それ以前は、上山田温泉の客目当ての観覧車、動物園、植物園となっていて、
廃業となり、廃虚となっていたようである。
大永4年(1522)村上氏の支族山田氏により築城された。
村上氏の支城となっていたが、天文22年(1553)葛尾城が落城となり、
その後、武田氏に属いた、屋代政国が入った。
が、上杉勢に攻められ落城した。
翌年には武田勢により奪回された。
武田氏滅亡後は、上杉氏の支城となった。
天正12年(1584)上杉氏配下の屋代秀正が徳川家康に寝返り、上杉氏に攻められ、
再び落城した。
現在は千曲市の管理する、総石垣の強固な史跡公園となっている。
ここから、さらに北へと尾根は続き、それぞれ山城が築かれていたようである。
流罪になった源盛清の子孫が村上氏となり、その本城である。
天文20年(1551)に砥石城が真田幸隆により落城されると、
天文22年(1553)に屋代・塩崎氏が武田方に離反し、葛尾城は自落した。
その後、上杉氏を頼った、村上義清は一旦葛尾城を奪回し、
戦略的位置により塩田城に移った。
慶長5年(1600)松代にいた森忠政が真田昌幸を監視するために、
葛尾城、虚空蔵山に籠ったところを、真田昌幸が攻め寄せた。
この後廃城となったと推測されている。
遺構は、現在祠のある本丸の北側に展開する搦め手方向によく残っている。
堀切が数条あり、中にははしごで登り降りしなくてはいけない箇所もある(中央画像)。
南側には姫城まで尾根上に曲輪が残っている。
大手道は坂城神社から急斜面となる。
搦め手を奥まで行くと、石塁で築かれた小さな曲輪がある(右端画像)。
なぜ、このような所に、といつの時代の物で、なんのためなのかも分らない。
千曲川を見下ろす位置に下った所にある。 本丸の南側に堀切が1条あり、曲輪、北側には曲輪が幾つか残る。
村上氏居館跡は満泉寺となっている。現在は境内と住宅地となっており、 土塁とおぼしき箇所も残るが、遺構ははっきりしない。
西上野への角間峠、鳥井峠、 和熊峠を押さえるために真田氏により築城されたと推定されている。 麓に日向畑遺跡という真田氏一族の宝篋印塔と推定されるものが発掘されている。 そこから尾根に出て、東へと続く斜面に城址はある。 本郭は平石による石塁で四方を囲んだ状態となっており、 西側が虎口となっている。尾根道の続く東側は深い堀切で断ってある。 石塁の外の南側には帯曲輪と思われるエリアがある。 西側へと斜面をしばらく下ると、広い曲輪がある。 ここも部分的に石塁で補強されている(左端画像)。
真田氏の最初の居館跡と推定されている。 五輪塔宝篋印塔を墓標とする墳墓が残されている。
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