武田氏の佐久侵入に対する備えとして、
伴野氏の幕下井出長門守により築城された。
が、天文9年(1540)村上氏の家臣薬師寺右近らが籠っていたが、
板垣信方の謀略で武田氏の城となり、
小山田備中守昌行(またはその父昌辰)が城代として入った。
翌天文10年(1541)に村上・佐久勢に急襲され、
二の丸、三の丸まで落とされたが、なんとか持ちこたえた。
すぐ東側に千曲川が流れ、甲州街道を押さえる意味で重要な城と云える。
城跡は、痩せ尾根に東から三の丸、二の丸、本丸と続き、
背後は堀切で断ち切ってある。
天文5年(1536)武田晴信が初陣で城主平賀源心以下を討ち取ったと、
甲陽軍鑑に伝わるようだが、確証はないらしい。
登山口から上がると通る、大芝峠を押さえる意味で、
重要な城であったようだ。
本丸跡を中心に西側に曲輪が数段残っているが、痩せ尾根なので、
広くはない。本丸の背後に深い堀切があり、南へ続く、
尾根には数段堀切が残っていた。
しばらく、その尾根道を登ってみると、
城址と関係あるのかどうかは分らないが、
幾つか平坦地(最右画像)が残っていた。
平安後期から名前が見える桑原氏による築城らしい。
天文11年(1542)に上原城から逃れた諏訪頼重は、
当城に逃れて来たが、孤軍故に降伏し、甲府に連れて行かれた。
現在、大河ドラマの影響か整備されている登山道を登って行き尾根道に出ると、
堀切が残っており城内へと入る。
首塚があり、本丸と二の丸が残っている。
本丸には土塁の跡が残り(左端画像)、
二の丸からの眺望は素晴しい。
築城者は不明。宮川茅野を本拠とする千野氏の持城となった。
その後、諏訪頼重が桑原城で降伏後は、武田氏に従い、
天正10年(1582)本能寺の変の後、千野昌房が中心となって、
諏訪頼忠を迎えて諏訪家を再興させた。
天文17年(1548)には既に廃城となっていた。
現在は、中央高速に分断されたり、
畑などとなり、石祠がある本丸周辺しか残っていないようだ。
それでも、空堀などの跡が残る。
元徳2年(1330)諏訪五郎時重が武居に居館を構えたが、
鎌倉で北条高時と共に自害し、その後、大祝氏の居城となったようである。
天文11年(1542)篠原弥三郎が城代の時に武田氏により落城された。
現在、居館のあった地は、
高台の上にあり、縄文時代からの遺跡もある程の平坦地で、畑となっている。
畑で農作業していた方の話によれば、大規模な空堀が以前はあったという。
また曰く。年に数回、武居城を求めて来る(酔狂な?)人がいると。
城址はここの裏にある山の頂上で、
空堀らしい道と数段からなる郭が残っているように見えたが、
数段からなる切岸は、桑畑の跡だと聞いた。
だが、左端画像などはどうしても切岸にしか見えなかった。
ただ本丸辺りの切岸は、確かに段が多すぎる感はあった。
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