江戸期、堀氏の居城。
室町時代に坂西氏が築城。その後、武田氏の支城となったりして、
現在の礎は毛利秀頼のもの。
それ以後、京極氏、小笠原氏、脇坂氏となり、堀家が続く。
現在は合同庁舎に赤門があり、本丸跡は長姫神社となっている。
小笠原氏宗家の居城。
深志や鈴岡の小笠原氏と争いが絶えなかった。
その後、武田信玄の侵攻に遭った。
現在は鈴岡城に渓谷を挟んで北接する場所にある松尾鈴岡公園。
かつてあった堀の跡はないが、曲輪の跡は残る。
小笠原宗政が宗家松尾家からの分家して鈴岡家として築城。
武田信玄の頃に松尾城の支城となり、その後廃城となった。
現在は松尾城に渓谷を挟んで南接する場所にある松尾鈴岡公園。
本丸など曲輪の跡や空堀が残る。
三河奥殿藩の松平氏の領地で本拠地は三河にあったが、
文久2年(1862)現在の地に移った。
時の藩主、若く洋学にも詳しい松平乗謨が
フランス人建築家ボーバンの稜堡式城塞を採用し、
文久3年(1863)から築城始め、慶応2年(1866)のほぼ完成した。
現在は小学校となっていて、台所のみ建物が残っている。
堀や石垣は綺麗に残っている。が、上空か山の上からでないと、
見事な五稜郭は把握できない。
武田信玄の佐久侵入の際に入城した、桜井山城がこの稲荷山城でないかと、
推定されている。天正10年(1582)佐久に侵入した家康は柴田康忠を派遣し、
この稲荷山城を前進基地とし、松平家忠に修築させた。
すぐ東側に千曲川が流れ、断崖となっている。
稲荷山公園となっていて、これという遺構はなかった。が、
城郭大系にある縄張り図では、南西に土塁や馬出しなどあったようで、
現在残っているのかどうか分らないが確認したかった。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。