信濃19



青柳城古城城野尻城妻籠城中俣城

青柳城

筑北村(旧坂北村)【最寄り駅】JR篠ノ井線坂北駅

青柳氏の居城であったが、武田信玄の川中島への拠点として改修され、 天文22年(1553)ここに泊まった。 天正11年(1583)から翌年に掛けて小笠原貞慶と上杉景勝とでここと麻績城の取り合いとなった。 天正15年(1587)に青柳氏が滅亡後は小笠原氏家臣の松林氏は在版した。(現地説明板より)
青柳館跡の清長寺から登ると、九十九折の道となり、東側に竪掘りがある。 柵のある帯郭を経由して、三の郭に出て、冠木門に辿りつく。 主郭の北側には石塁が残っている。 三の郭を東に行くと、四の郭、五の郭と細い尾根上の郭で、 東側に二重堀切が残る。さらに東側に行くと、巨大な二重堀切があり、登り返すと、 櫓門のある城址入口にいたる。車で来る場合はここがスタート地点になるだろう。


古城城

須坂市【最寄り駅】長野電鉄須坂駅

大岩須田氏の大岩城の支城だと推測される。(信濃の山城と館8より)
鎌田山の麓に吉向窯跡があり、そこから登山道が明覚山まであり、中腹、坂田山の手前に位置する。 尾根が急勾配で登りきると堀切が1本あって、西南北を低い土塁で囲まれた主郭があり、その先に堀切が2本残る。 大規模な城でもなく、古い城なのか、大岩城の背後を守るための砦なのかははっきりしない。


野尻城

信濃町【最寄り駅】しなの鉄道黒姫駅

南北朝の頃に築城された。観応2年(1351)北朝方の小笠原為経・武田丈元らが野尻城から信濃南朝方が蜂起した時出動した。 信濃守護かれあ高梨氏、上杉氏の重要拠点と変わって行った。 永禄4年(1561)9月武田方に割ヶ岳城を落城され、7年には一時的に武田方に落ちたが、すぐに奪い返している。 12年の時点で城ヶ入の野尻新城の方に拠点が移っている。(信濃の山城と館8より)
野尻湖にある琵琶島自体が城跡であるが、今は宇賀神社の境内となっており、 参道の途中、本殿の手前に堀切の跡が綺麗に残っている。 永禄7年に宇佐美定行が、謀反を企てようとしている長尾政景を諌めたが聞き入れられず、 政景を道連れに野尻湖に身を投げたことに謙信が感激し弔ったという墓が残る。 港から手漕ぎボートで10分も掛からず辿り付ける。
湖の中の島では防御性には優れるが支配という点ではどうだったのだろうか。 後年新城の方に拠点を移したのは自然な流れか。


妻籠城

南木曽町【最寄り駅】JR中央本線南木曽駅

築城時期は不明。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの際に、秀吉に味方した、木曽義昌が整備し、山村良勝に守らせた。 菅沼定利の指揮の下、保科正直、小笠原信嶺、諏訪頼忠が攻め寄せたが、落城できなかった。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際に、小笠原信之が整備し陣を布いた。(大系より)
旧中仙道に標識があり、そこから上る。小天守の山を越えて下ると、 かつては空堀だった所が今は土橋になっている。 右側から周って登っていくと、いつの間にか空堀に入っている。 そこからさらに登ると、藪化した空堀があり、二ノ郭への分岐を見て、主郭に至る。 主郭は広く、妻籠の町が見下ろせる。 旧中山道を挟んだ反対側の山に妻の神土塁と呼ばれる長い土塁が残っている。


中俣城

長野市【最寄り駅】長野電鉄柳原駅

応永年間(1394〜1428)井上左馬介光頼の弟遠江守が居城し、その後村上氏に従う。 (現地説明板によれば応永31年に井上氏により築城されたという) 弘治永禄年間には武田氏の城となり、森長可の弟右近太夫忠政が、さらにその後天正10年(1582)には上杉景勝の所有となり、本田安房守は居住し、 上杉氏の会津転封に従って廃城となったという。(『信濃の山城と館2 更埴・長野編』・現地説明板より)
現在は平坦な地形で住宅地の中に、城山稲荷が残るだけで、遺構はないが、北八幡川が東側から南側に回りこみ、 かつての雰囲気も若干残っているように感じる。

鳥居から城山稲荷 南側から



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