信濃20



杵淵館金井山城寺尾城尼厳城

杵淵館

長野市

杵淵氏が代々居住した。小源太重光の時に城長茂に属し、横田川原の戦いの際に旧主君富部三郎家俊が木曽軍の西広助に討たれた時に、 あだを討とうと広助を討ち取ったが木曽軍に囲まれ自害したという。 後代、村上義清が越後に逃れるのに従い、上杉謙信の川中島の出陣の時にも軍功を上げたという。 (『信濃の山城と館2 更埴・長野編』・現地説明板より)
現在は、桃の果樹園の多い杵淵集落に土塁と堀の跡が一部残り、 土塁の上には稲荷社が立っている。

南西側から 稲荷社 土塁上から堀跡 北側から


金井山城

長野市

永正元年(1504)に新田系海野氏の金井兵庫介貞幸により築城された。 3代に渡り、村上氏に従ったが、天文19年(1550)9月に寺尾重頼とともに武田氏に内応したために、 村上方に囲まれた。血族であった、真田幸隆が救援に駆けつけたが、 落城した。 (『信濃の山城と館2 更埴・長野編』より)
金井池の横から遊歩道が途中まであり、観世音から先も遊歩道ではないらしいが道ははっきりしている。 古墳を通り過ぎると遺構が続く。 巨大な堀切2本が特徴的で2本目は主郭の手前で、登りきると、主郭の石塁が現れる。 主郭背後の道を下ると鳥打峠の方に行けたようだがそこは未確認。



寺尾城

長野市

寺尾氏代々の城だったが築城時期は不明。 天文19年(1550)武田晴信が戸石城を攻めた時に、村上氏に背き、武田氏に寝返ると、 村上義清と高梨政頼の連合軍に攻められ、真田幸隆が救援に向かったが、落城した。 天正10年(1582)以降、上杉景勝の所領となり、寺尾氏伝左衛門が城主に戻った。 慶長3年(1598)上杉氏が会津に転封となり、それに従い寺尾氏も移り、廃城になった。 (『信濃の山城と館2 更埴・長野編』より)
愛宕社参道入口に「寺尾城址登山口」の標識がある。 急な階段をしばらく登ると愛宕社で、そこからは登山道はないが、30mばかり尾根を登ると、 郭らしい削平地に出る。 石塁らしい跡があり、馬場である広いぼこぼこした4郭に至る。 その上の2,3郭はさほど広くなく、南東側には竪堀も残る。 主郭手前に堀切があり、主郭には「寺尾殿之墓」が残る。 その背後は石塁が少し残り、急斜面で、堀切と土橋があり、5郭。さらに行くと、再び堀切と土橋があり6郭があり、 細長い6郭の先にも堀切と土橋が残っている。




尼厳城

長野市

東条氏の居城であった。天文19年(1550)寺尾氏は武田氏に寝返ったが、東条氏は村上義清に従った。 天文22年8月に武田晴信は真田幸隆に尼厳城を攻めさせ、落城し、東条氏は越後へ奔った。 西条治部少輔に命じて普請させた。海津城築城前後でも重要な拠点であった。 武田氏滅亡後、天正10年(1582)8月領主となった上杉景勝は、旧城主の東条遠江守信広に守らせた。 慶長3年(1598)上杉氏の会津転封に伴い、東条氏も移り、廃城となった。 『信濃の山城と館2 更埴・長野編』より)
西からの尾根を登ると、大手筋を守る石塁がある。そこから岩場が続き、 登りきると郭に出て、さらに登ると、複雑な形をした堀切の組み合わせに出る。竪掘が2本良く残っている。 そこからはさほど広くもない尾根に堀切を設けて、最高部に主郭があり、見晴らしが良い。 搦め手を下ると岩場である。その下は未確認。





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