弘治元年(1555)武田信玄が旭山城に籠る栗田氏を見方にしたので、上杉謙信が築城させた。
落合備中守が城主だった。
弘治3年の冬、雪で越後と間が遮断される時をついて、武田信玄が攻め、
水利の便が悪いことを知り、火攻めにして、2月15日備中守は討ち死にし、落城した。
武田氏滅亡後の天正10年(1582)には上杉景勝が北信濃を支配すると、葛山衆が活躍するようになったが、
拠点がどこかは定かでない。(現地説明板、甲信越の名城を歩くより)
810mの山頂を主郭として東西北の尾根にそれぞれ遺構が残る。
主郭前後の堀切は巨大で見ごたえがある。
主郭東側の連続空堀群については、「戦国の城」では武田信玄が落城させた後に、破城の象徴として穿ったと推測している。
観音山からの登山道の途中にも未整形の遺構らしいものがある。郷路山城というのはどこかよく分からない。
また頼朝山も城跡だったようで、山頂は郭らしい雰囲気が残っている。
文献資料に存在しないが、北西部の配水池のある一帯が初期に築城され、
16世紀に入って、現在模擬天守のある一帯に築城されたと推測されている。(甲信越の名城を歩く、より)
模擬天守の西側には深い堀切があり、さらにその外側にも堀切がある。
南側に下ると削平地が続く。さらに麓近くまで至ると、堀切状の遺構も残っている。
文献資料に一切出てこない城。
大峰城からも近く、16世紀後半の年代が想定されており、
武田・上杉の攻防にかかわった城の1つと推定されている。(現地説明板)
地附山の西側、戸隠バードラインに入口があり、登ると、土塁がある。
出丸のような郭があって、大きな堀切が主郭との間にあり、西側から廻り込むように虎口がある。
主郭は整形されていない。
南北朝の頃に南朝方により築城されたという。その後麻績氏の居城となり、青柳氏とともに武田氏に属した。
天正10年(1582)本能寺の変後、上杉氏と小笠原氏の争う所となり、翌11年上杉景勝が攻略した。
その翌年、小笠原貞慶が奪還のために攻め込むも反撃に遭い惨敗した。
が、越後国内の叛乱のために景勝が撤退し、小笠原氏が奪還し、天正18年(1590)家康の関東移封とともに去って廃城となった。
(甲信越の名城を歩くより)
のろし山との間の鞍部に説明板がある。
ここから急斜面を登ると、郭(IV)があり、堀切があり、郭(III)があり、自然の谷となり、II郭があり、堀切を挟んで主郭がある。
主郭から、西側には数段腰郭があり、虚空蔵山城へ下っていけそうだった。
麻績氏が地域支配のために築かれた城と考えられている。
(甲信越の名城を歩くより)
法善寺裏のヘアピンカーブあたりの谷から登り詰めると(標識はない)、最南端の堀切に至る。
少し登ると、岩盤上に主郭があるが、切り立っており、登り口は限定され、石塁が残っている。
主郭の背後に深い堀切があり、II郭が残る。その先にも堀切があり、麻績城からの尾根を断っている。
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