角張浄阿は、法然上人にも従い身のまわりの世話をした。木曽義仲が京へ西上した時は井上氏軍団に従った。
その後、累代角張氏の居住地であった。(信濃の山城と館8より)
井上氏居館跡の南東にあり、畑となっていて遺構は特にない。
井上城とも至近距離で井上氏関係の城と推測される。
井上城とは同じ尾根上ではあるが、主郭から南へ下る尾根に1本堀切がある。
また主郭は、穴が掘られたような跡で、城というよりは、見張台か狼煙台のようにしか見えなかった。
信濃源氏井上氏の城。城に関する歴史は不明。
十九塙城と同じ尾根上にある。十九塙城の堀切を越えて、しばらく急斜面を登ると、
登山道に合流する。さらに高度を上げていくと、うっすらとなった堀切があり、小城に入る。
南側に腰郭があるくらいで小規模である。ここから東に行くと、3本の連続堀切があり、
そこを越えて高度を上げるとさらに1本の堀切があり、大城に至る。
主郭はさほど広くなく、周囲を腰郭に囲まれている。
東側に下ると郭があり、その下に大きな堀切がある。さらにその下にも大きな堀切がある。
浄運寺への分岐を過ぎた郭に説明板が立っている。その先には岩盤を削ったような堀切がある(最右画像)。
井上氏の居城。戦国末期に大峡氏が改修したと推測される。(『信濃の山城と館8 水内・高井・補遺編』より)
細長い尾根上に位置する。
最高所である主郭を中心に前後に堀切が数条残っている。
中でも主郭北側の深い堀切と、南側の3重堀切が印象深い。
栗田氏歴代の居館だった。栗田寛覚(1183年没)の子、仲国が築城したという。慶長3年頃(1598)上杉氏と共に会津へ移ったために廃城になった。
(現地説明板より)
元々、二重の堀に囲まれた平城だったが、現在は日吉大神社が西側の土塁跡に立っているくらいで、住宅地に埋没してしまった。
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