詳細な歴史は分かっていない。
釜山と呼ばれる、小山が当城址である。主郭にある詩碑に、「暮色生城址…」とあり、伝承として伝わっている。
(信濃の山城と館8 水内・高井・補遺編より)
天神原のバス停の目の前の小山で、
南側を旧道が走っている(左3画像)。主郭には詩碑が立っている。
旧道を監視する砦、物見の役割があったようである。
明覚山の東側・灰野峠を通る、謙信道を意識した城で、この道は、
松代、保科、前山、八町、米子、水中、赤和、山田、中野、飯山と続いていた。
上杉軍が川中島へこの城下に3千頭の軍馬を隠し出撃したという伝承や、
武田氏家臣の安間氏の伝承もある。
武田氏滅亡後は、上杉氏の家臣となった須田満親が海津城に入り、
周辺一帯は上杉氏の転封まで上杉氏の支配下に入ったが定かでない。(信濃の山城と館8 水内・高井・補遺編より)
浄教寺の裏尾根から獣用の柵の入口から中に入り、滑りやすい尾根を登り詰めると、
次第に人工的に削られた、切岸が出没しだし、左端画像の堀切に至る。
ここからさらに標高をややきつい斜面を上がると、主郭下の腰郭前の堀切に出る。
ここを越え、西へ行くと、西尾根で、2本の堀切が残る(左3画像)。
主郭は細長い長方形で南側がやや高くなる(右端画像)。
東西北を腰郭が囲み、西側に今でも綺麗な畝状竪堀の跡が残る(下段左1,2画像)。
主郭の南側には大きな堀切があり、巨石の目立つ3郭となる。
さらに堀切が3郭の南にあり、巨石が転がるやや自然地形の場所となる。
天文年間(1532〜55)須田氏幕下の牧伊賀守の居城。
永禄2年(1559)武田晴信に攻められた、須田満親は越後に逃げた際に同行し、廃城になったという。
永禄5年(1562)上州吾妻渓谷の羽尾氏が鎌原氏に追われ、高井野に逃れた事件とも関連の可能性もある。
(信濃の山城と館より)
牧から万座へ抜ける県道112号線を登り、柞沢川を渡って、少し登った所にある。
4つの郭からなり、それぞれ、四方を空堀で区切られている。
主郭の南東部には櫓台らしき高まりも残る(最左画像)。
三郭は畑化され掛かっており、城の説明板のある東側の空掘だけは確認できる(左4画像)。
四郭も熊笹に覆われ、余り削平されていない印象があるが、
南側の空堀跡だけはよく残っている(最右画像)。
4月半ばにして残雪がかなりあり、空堀の跡がよく分った。
いずれにせよ、須田氏配下の牧氏という豪族だけの居館跡にしては大きすぎるように思える。
11世紀後半に清和源氏の満実がここに入国、井上氏を称し、高井源氏、または信濃源氏の本家筋として続いた。
(信濃の山城と館8・現地説明版より)
現在は、住居と畑となっているが、方形館の南側の堀の跡らしい跡が良く残っている。
南西部が内側に凹んだ縄張りとなっている。
古来以来神社が存在し、井上氏の入国後、氏神と転用され八幡宮の社地であった。(信濃の山城と館より)
現在、方形館サイズの小坂神社の周囲を土塁が廻っている。樹齢3〜600年のケヤキ並木は壮観である。
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