治承4年(1180)岡田冠者源親義が築城したと伝わるが、
室町時代中期伊深氏により築城されたのが事実と推測されている。
その後は後庁氏が城主となり、
天文19年(1550)武田氏が信州に入ってくると、小宮山氏が管理した。(現地説明版より)
麓には、岡田冠者源親義の墓と後庁氏の菩提寺の慶弘寺の跡があり、そこから歩道が主郭まで整備されている。
最後部に主郭を設け、南面に大手道が麓から達する。
北の背後には巨大な堀切があり(右端画像)、さらに数条堀切が続いている。
犬甘氏の居城で、麓には犬甘氏館もあった。(大系より)
南北朝頃から信濃守護の小笠原氏の重要な支城であった。
天保14年(1843)松本城主戸田光庸がそれまで藩の管理下にあったのを
庶民の公園として開放した。
(現地説明版)
現在は奈良井川を望む、城山公園として公園化されており、
郭が3つ、それぞれ堀切を挟んで残っている。
西側の北アルプスの見晴らしは良い。
建武2年(1335)小笠原貞宗は足利尊氏に従って活躍した勲功の賞として安曇郡住吉荘を与えられた。
その後信濃に下向し、伊那郡松尾館から当地へ館を移したと推測される。
「小笠原系図」によれば、貞宗の子政長が元応元年(1319)当館で生誕したとあり、
既に存在していたことになる。(現地説明版より)
住宅地の中にぽっかりと残っている。
平成26年現在で発掘調査を行っているようである。
小笠原貞宗が井川館に移った頃、支城があった。その後、天文19年(1550)武田氏の松本への侵攻に、
林城は自落し、ここ深志城の大規模な改修に取り掛かった。
その後天正10年(1582)織田氏の甲斐侵攻の後、木曾義昌が入った。
本能寺の変後、上杉景勝は木曾義昌を追い払い、小笠原長時の弟の貞種を城主としたが、
家康の後援を受けた、長時の長男貞慶が攻め、失地を回復した。
天正18年(1590)小田原征伐後、関東に移封となった家康に従い、
貞慶の子秀政は下総古河2万石で移り、石川秀昌(数正)が入った。
この頃、近世城郭として計画され、子の康長の時に完成を見た。
その後は、小笠原氏、戸田氏、松平氏、堀田氏、戸田氏と入れ替わり明治維新を迎えた。
辰巳附櫓と月見櫓は寛永10年(1633)〜15年の在任中に松平直政が増築している。(大系より)
天守のある本丸を内堀が囲み、
さらにその外に二の丸があり、その外に外堀が巡り、その外を郭が囲み、
大手門が南にあり、東西、北に2つ馬出しがあり、その外に惣堀があったが、
惣堀は東側に一部、惣堀の内側の土塁は右端画像のように一部残る。
築城時期は定かでないが、平地の城館である井川城と山城の当城を信濃守護の小笠原氏は本拠地とした。
天文19年(1550)武田氏の信濃侵攻を前に、犬甘城が簡単に落城すると、当城も自落した。
その後武田氏によって改修されたと推測されている。(現地説明版・大系より)
薄川の南側に位置し、最後部を主郭として、西の麓側にへ20段以上も腰曲輪が続く。
一方、背後の東側も数本堀切が残っている。
主郭は土塁に囲まれ(左端画像)、その外側には腰曲輪があり、
西側には堀切を挟んで二ノ郭があり、麓へ郭が時折堀切を挟んで連続する。
林道のある北側には堀切3本が連続している。
技巧的な臭いはしないが、とにかく規模が大きい(右端画像)。
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