享禄-天文年間(1528〜1555)に村上氏一族の屋代氏により築城されたと推測されている。
屋代氏は村上氏に従っていたが、武田氏の侵攻の前に武田方に属し、村上氏の葛尾城は自落した。
屋代氏はその後、海津城に入った森長可に従ったと推測され、本能寺の変後は、
上杉景勝の勢力下に入り、屋代秀正は村上景国の配下となった。
徳川氏の佐久・小県侵入にあたり、徳川方に寝返り、その後は真田昌幸の領地となった。
(大系より)
現在の一重山にかけて、南側の墓地となっている掘削された場所以外、
北側と南側に分かれて遺構は良く残っている。
北側の鐘つき堂から登ると、この辺りはアスファルトが入り、
堀切が2本残る。
いったん、下り、平たん地がある。ここを登り返すと、狭い尾根上に堀切が続く。
山頂近くなると、切り岸を伴った曲輪が3段ほどあり(中央画像)、
土塁と空堀のセットも見られる(左1,2画像)。
山頂部は2段からなり(右2画像)、西側には石塁が残っている(右端画像)。
山頂部の南側は掘削されてしまい、遺構は残っていない。
築城者、築城年代の詳細は調査不足で不明。
篠山遊歩道沿いにある。
麓にある飯縄稲荷神社付近には石塁が見られるが、城跡の遺構ではないようである。
神社から少し登ると、腰曲輪らしい数段の曲輪が現れ(左端画像)、
「赤沢城」の標識のある辺りの左側には石塁が残る(左2画像)。
標識に従って行くと、堀切からの竪堀があり、ここを登る(右2画像)。
遺構はやや藪っていたが、北端にある主曲輪手前には堀切と土塁が残っている(右端画像)。
城址は、この主曲輪から篠山遊歩道にかけて曲輪が続く。
北側に下って行く、尾根上にも遺構はあるようであるが、未確認。
天正11年(1583)上杉景勝が府中(松本)の小笠原貞慶に備え築城した。
保科豊後守・松田民部助らが在城した。
翌8年貞慶は稲荷山口を破って青木島方面へ進出した。(大系より)
現在住宅地化され遺構はほとんど残っていない。
井戸が残っているとのことであるが、見損ねてしまった。
北条義政が建治3年(1277)に鎌倉から隠退して移った。
その後はその子国時、その孫俊時が在城した。
正慶2年(元弘3,1333)に北条氏滅亡後、村上信貞が塩田十二郷を与えられ、
村上氏の直臣福沢氏が代官として在城した。
天文22年(1553)武田信玄の侵入により、自落した。
天正10年(1582)に武田氏が滅亡後は、上田築城まで真田氏が支配した。(大系・現地案内板より)
独鈷山の支脈、弘法山の北山麓、前山寺と龍光院に挟まれた場所にある。
最後部に後世になって作られたという北条国時の墓がある。
それから数段下って、虎の口と呼ばれる(左端画像)、石塁で進入路を防ぐ形の郭があり、井戸が残る。
さらに数段下ると、三島社があり、さらに数段下った所に空堀と石碑があり、
その北側が城下町であったようである。
この石碑のある辺りからは、礎石等の建築遺構、生活用具類も出土している。
その南側は桑畑として開発され遺構は破壊されているようである。
城のエリアの東西を挟む尾根にも、
それぞれ砦として、さらに弘法山も砦であったようだ。
北斜面にあり、藪も多く、直前に雨も降っていたので、じとじとしてやや不気味な雰囲気がある。
龍光院横の「塩田の館」に遺物と復元鳥瞰図がある。
武田氏が佐久地方統括の拠点としての鍋蓋城の支城として整備されたと推測されているが、
築城年代は不明。武田氏の滅亡後、真田氏の抗争時に、徳川氏家臣柴田康忠が一時在城したと伝わる。
(大系・現地案内資料より)
飯縄山の小諸市立小諸高原美術館の裏手にある。
最高部を主郭として、前後に堀切が残る。
南側の帯郭と主郭を中心とする郭間には石塁が残っているが、全てが遺構かどうかは分からない。
とにかく北は浅間山、南は千曲川の河岸段丘が望め、眺望がすばらしい。
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