詳細は不明。
昭和58年宮崎県教育委員会の発掘調査で発見された。
郭は3つで周囲は空堀だったという。その後の住宅地造成で消滅した。(現地説明版より)
現在は公園に標識と説明版があるだけとなっている。
天授年間(1375〜81)に土持氏の支族熊野氏により築城されたと推定されている。
その後、伊東祐立が攻め取り、以後、島津氏と伊東氏との間で取り合いとなり、
文安年間(1444〜49)伊東氏の城となって、永禄年間(1558〜70)に母以上になったと推測されている。
その後、国体開催のための土取りに遭い消滅した。(大系より)
現在は小学校や住宅地となり痕跡は残っていない。
詳細不明。
油津駅の裏手、天福球場の北側の小山に残る。
生憎天福球場側からはキャンプ中で立入できず、北側の小道から入る。
後世が当時のものか分からない荒れた切岸を数段登りきると、主郭下の広い郭に出る。
南側へ西側から回り込むと、南側に一段高い郭があり、その南側に比高10m弱ある堀切がある。
崩れやすい地質で木を掴まないと上り下りも厳しい。
主郭に登ってみたが藪化していてはっきりしなかった。
詳細不明
湖雲ヶ城に登るつもりが、そもそもの場所を誤って高畑山に登り、そこが陣ヶ城であった。
林道は最後に荒れて藪化しており、かき分けると尾根に出る。
北側のピークは自然林で北西側は切岸ぽくあったが、林業のためのものか。
南側へ尾根を伝うと高畑山に至るが、山頂は自然林で遺構はなく、その北側が削平された広い場所で郭らしく、
ここが唯一の遺構だったようだ。湖雲ヶ城を攻めるために使ったのか、築城目的が気になるところである。
慶長6年(1601)伊東氏により築城された。元和元年(1615)一国一城令により廃城になった。(九州の名城を歩く 宮崎・鹿児島編より)
果樹園のある山に残る。周囲に石塁が残っているようであるが、藪のために確認できなかった。郭内の石塁は果樹園のために後世に築かれたものかはっきりしなかった。
展望に優れる地である。
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