すぐ近くにある伊東48城の1つ、米良喜内の山陰城の支城か。
詳らかな歴史は分らない。
現在は西城公園となっており、逃散の碑以外に何もなく、寂しい限りだが、
遺構は歴然と残っている不思議な城址である。
耳川のすぐ北側に位置し、椎葉や西郷からの道を監視できる位置にある。
本丸は小高い山の山頂にあり、深い堀に今は橋が架かっている(最左画像)。
本丸の麓には、やや広い二の丸がある(左2画像)。
この本丸、二の丸の周囲は切り立った崖となっている。
さらに現在駐車場や公園のある辺りが三の丸だったか(左3画像)。
背後にある水道施設のある森には、曲輪らしい削平地や堀切が残っている(最右画像)。
建武2年(1335)島津忠宗の4男近江守時久が足利尊氏から与えられ築城した。
が、その後、富山国長に奪われた。
その後は土持氏の持城であったが、伊東祐尭に敗れ、伊東48城の1つとして、
永禄年間(1558〜70)は野村蔵人佐が城主だった。
しかし天正5年(1577)義祐が島津氏の侵攻の前に日向を去ると、
山田新介有信が城主となった。
翌年、大友宗麟が5万の大軍で押し寄せたが落城することなく持ち堪え、
結果的に高城川合戦と呼ばれる大友・島津による大戦となり、
島津氏の大勝を呼び込み、以後大友氏は衰退した。
さらに、天正15年(1587)羽柴秀長を大将とする征伐軍が南下し、
やはり山田有信籠る高城を囲んだ。
羽柴軍は51箇所に砦を築いて攻め立てたが落城することなく持ち堪え、
島津義弘の降伏の後、開城を説得し、開城に至った。
小丸川と切原川に挟まれた突端状の小山の山頂に位置する。
西側は丘陵に続くので、尾根を7条の堀切で断ち切ってある(中央・右画像)。
本丸は広々とした公園となっており、井戸跡が残り、
腰曲輪が数段周囲を囲繞している。
詳らかな歴史は分からない。
明治維新後、西南の役の際五ヶ瀬川対岸の西階城に対して
この辺りに陣を布いたらしい。
明確な遺構は深い堀切のみ。
それ以外は、曲輪が残っているが、
一部は、畑や墓地、最後部は藪化していた。
現地の住民の方も城跡であることはご存じなかった。
すぐ近くの南方古墳群の方が有名であるようだ。
天正〜文禄の頃(1573〜96)高千穂領主三田井氏の出城48塁の1つで、
重要な出城で甲斐宗攝が城主であった。
文禄4年(1595)延岡藩主の高橋元種に攻められ、落城、宗攝は鶴の平で自刃した。(現地説明版より)
日之影役場、発電所の南側の急峻な山の上にある。
説明版の先に井戸跡があり(左端画像)、右側に大手口?がある。
比高10mで本郭のある平坦地に至る。現在、本丸跡とある教育委員会の標柱は藪しかないが、
その西側に土塁らしき構造物があり(左2画像)、北側に数段郭らしい平坦地があり、
西側に土塁で囲まれたような一番厳重な郭がある(右端画像)。
応永年間(1394〜1428)に北原氏が百貫山から伸びる丘陵先端を掘り切って築城した。
応永2年(1395)北原範兼が相良祐頼と酒宴中に意見の相違から争いとなり、相刺死し、
永享2年(1430)には島津総州家と奥州家の争いで、総州家の島津久林が奥州家の忠国に攻められ切腹し果てたと云われる。
永禄年間(1558〜70)に島津義弘が久藤城を修復し、広瀬夫人を居城させると、
支城的な扱いとなったといわれる。(えびの市の城館跡と現地説明版より)
関川の西側の小山で、東から、小城、中之城、高城に堀切(通路)で明確に曲輪が分かれている。
石碑のある場所から西へ少し行った辺りに入口があり、鬱蒼とした森へ入る。
南側まで行くと、西側に高城の南曲輪(2段目最左画像)、東側に中之城の南曲輪があり(2段目左2画像)、
それぞれ独立した曲輪となっている。
元来た道を引き返し、中之城への登り道と反対方向にやや痕跡が薄くなりつつある、
高城への登り道がある。登り切ると、北側と南側に虎口がある。後世に手が入ったのだろうか。
西側へ郭内を進むと、南北を石塁で区分けしたような跡が残っている(2段目最右画像)。
石垣が築かれていたが、正徳3年(1713)川内川を堰き止めるのに使われたというが、
それらしい石が落ちていたり残っていたりした。
反対側の中之城へ登ると(3段目最左画像)、郭内は北が一段高くなっており、馬乗り馬場と呼ばれる(3段目左2画像)。
東側へ藪を突っ切ると、北へ開きすぐに東に直角の折れを持つ虎口がある(3段目左3画像)。
虎口から下ると真正面が小城で、北側に虎口がある(3段目最右画像)。
縄張り図では土塁が残っているようであるが、藪過ぎて確認できなかった。
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