伊東氏家臣、米良四郎右衛門の居城。米良四郎右衛門が高城の戦いで、
戦死後、伊東氏、大友氏は撤退し、島津氏の勢力下になった。
秀吉の九州征伐以前は、伊地知丹後守(藤原祐盛?)が城主だったという。
その後、延岡藩の所領となり、江戸時代に一国一城令で廃城となった。
標高29.1mの山とは云えない丘陵上にある。
本丸を中心に二の丸が1段下に、それを囲むように堀があり、三の丸と続く。
さらにそれを囲むように、現在田んぼとなっている地帯が堀だったと思われる。
南にある五十鈴川を防衛線にして、日向市方面からの攻撃を防ぐための、
重要な拠点だったようである。
鎌倉末期から室町初期の頃に伊東氏によって築城された。
伊東氏48支城の1つ。
塩見城の土持氏に対する城で、その後も豊後の大友氏に対する拠点となった。
祐邑が城主の時、島津氏に対抗するために大友氏と結ぼうとしたが、
家臣に宗家乗っ取りとの誤解を受け、城内で暗殺された。
その後、福本新十郎・氏本駿河守が城主となり、
島津氏の支配下となった天正6年(1578)井尻伊賀守が城主であった。
秀吉の平定後、延岡藩領となり、一国一城例で廃城となった。
現在は、土塁や堀切などが残っている。
特に石塁は多くの箇所に残っており、この辺りでは、特異な城ではないだろうか。
南北朝の頃、土持氏により築城されたという。
その後、伊東氏48支城の1つ、となった。
伊東氏の家臣右松四郎左衛門の居城で、天正6年(1578)高城の戦いで戦死し、
島津氏の家臣、吉利忠澄が城主となった。
秀吉の征伐後、延岡藩領となり、一国一城令で廃城となった。
現在、城山墓園から道が続いていて、付近に中山遺跡がある。
城山公園となっていて、遺構はやや壊された印象がある。
南北に細長い本丸の東側と南側にそれぞれ1段下って曲輪が残る。
曲輪との間には土塁らしい跡が残る。
また、南側の曲輪の下には、堀切(最右画像)を1つ挟んで、さらに1つ削平地がある。
文安元年(1444)長井式部少輔が城主だったが、
伊東氏の圧力に屈っし開け渡し、川崎五郎左衛門が城主となった。
永禄年間(1558〜1570)には伊東四十八城の1つとして川崎上総介?
(城郭大系では"上総守"、現地案内板では"上総府")が城主だったが、
島津勢に攻められ落城し、
天正5年(1577)以降は宮崎地頭の上井薫兼が城主となった。
天正15年(1587)の秀吉の九州征伐以降は再び伊東氏領となり、
慶長初期(1596)頃は稲津因幡守、その後借屋原甚右衛門が城主だったが、
元和元年(1615)に廃城となった。
現在は城山公園となっているものの、目に見える遺構は少なく、
本丸には仏舎利塔が立っている(左画像)。
南西部に1本深い堀切(薮化している)を挟んで、曲輪が1つ残っており、
現在はNHKの電波塔がある。
太平洋を臨む、突波川河口の右岸に位置するため、
重要な城であったと想像される。
天文17年銘の六地蔵鐘が近くにあることから、
河野越智氏の城であったと推測されている。
2月にして、シダが繁茂しまくっていた。況や夏場を。
甫場から道が続き、途中の峠辺りから、突端状の城址である「おや鼻」にかけて、
薮道がある。一面、シダに覆われているが、
標高56mの「おや鼻」にかけて、急に角度が変わったりする、
2、3条の堀切らしいエリアがある(両画像)。
その手前のフラットなエリアがあり、
やはり千畳敷と呼ばれていたことを地元のおばちゃんから教えてもらった。
「おや鼻」山頂は樹々が生い茂り、遺構はよく分らない。
東側に石組みがあり、桟橋の柱穴もあるらしいが全く確認できなかった。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。