伊東48城の1つ。
南北朝期に南朝方の居城であったが、伊東氏の城となり、
義佑没落後、島津氏のものとなった。秀吉の九州征伐後、高橋氏の支城となった。
関ケ原の戦いの際に、伊東祐兵は家康に通じていたが、
伏見城攻めの西軍に派兵してしまったので、
伊東家家臣清武城主稲津重昌が西軍高橋氏家臣のこの城を攻め落城させた。
現在もかなり土塁、堀切など遺構はよく残っている。
曲輪1つ1つに城の名前が付いている。規模はかなり大きい。
本丸跡とされるところは、それらしくなかった。
伊東48城の1つ。伊東氏の支族清武氏の築城。
島津氏に対する守りの拠点。
伊東祐国の島津攻撃の際にその父祐尭はこの城で病死した。
一国一城令により廃城。
現在はみかん園?の中にある。北側に曲輪(二の丸?)の跡か広い所がある。
室町時代に土持氏11代宣綱により築城された。
16代親成の時に大友氏により、土持氏は滅びた。
が、島津氏の侵攻で再び落城、親成の子親信が入った。
その後、秀吉の九州征伐後、高橋元種が延岡(県)に配されると、
慶長8年(1603)、
延岡城を築き直し、この松尾城を廃城にした。
本東寺の裏手にある。1つ1つの曲輪が独立した形をとる。
この手の形式は、宮崎県や鹿児島県に多く見られる気がする。
中でも本丸には、脇曲輪などが残っているのが分る。
正長2年(永享元、1429)、井上城から土持栄宣の時に移った。
だが13年後の文安元年(1544)宣綱の時に、南の伊東氏の勢力と対抗するために、
五ヶ瀬川の対岸である、松尾城へと移って廃城となった。
西階運動公園の金堂ヶ池から、よく整備された登り口がある。
クロスカントリーコースになっているが、旧状はかなり残している。
本丸は北に堀切(いつの時代も物か判明しない)があって、
2段の曲輪からなる。
また、本丸とは独立した曲輪も南側に残っている。
こちらも旧状をきれいに残している。
鎌倉時代に土持国綱もしくは栄綱の時に県(延岡)城を廃して、
この井上城に移ったとされるが、土持氏の支配が進んだ14世紀半ば以降に築城したと見られる。
室町時代に入り、栄宣の時に西階城に移った。
現在は天守山とも云う。土地の偉人を讃える碑と墓がある。
その墓は北の丸に相当すると思われる。
本丸には神社があるが、かなり荒れている。
現に井上城を記す木製の碑も倒れていた。
西の丸も残っており、冬にも関わらず、かなり繁茂している。
況や真夏をや、と推測される。
登山口に令和2年設置の説明板(縄張り図付)が設置され、北の城の主郭の木製の碑も立て直されていた。
全体的に整備されていた。
南の城に行ってみたかったが、時間の都合で行けなかった。
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