高橋元種が関ケ原後も城主だったが、改易となり、有馬氏が入る。
有馬氏の転封の後、牧野氏そして内藤氏が入り幕末を迎えた。
現在は城山として市役所の裏にある。やはり千人殺しの石垣は圧巻である。
天守台にある鐘は1日のうち定期的に鳴らされている。
現在延岡は、旭化成の城下町となり、市内のバスの行き先が
「レーヨン」というのが印象的だった。
秀吉の平定以来、秋月家が城主。江戸期の名君主として 名高い 米沢 藩主、上杉鷹山はもともと、この秋月家出身である。
伊東家が江戸期を通じて、ずっと城主。
ちなみにポーツマス条約で
名を著した小村寿太郎の出身地。
島津家の分家、北郷氏が鎌倉時代にここを本拠として栄えた。
その後、配置替えで伊集院氏が入るも、庄内の乱で伊集院忠真がここに籠った。
結局、徳川家康の調停で島津家と和睦して開城になった。
江戸期は廃城となるも、都城は島津家の私領となって屋敷が置かれた。
現在は木造の都城歴史資料館となって大手門も復元されている。
また曲輪の跡や建物の跡も残る。
伊東48城の1つ。
伊東氏の一族田島氏の築城。その後、伊東義佑が移って来たりした。
伊東氏の日向撤退から島津氏のものになり、
江戸期になると島津以久が3万石で入府した。天守があった。
その後、麓にある鶴松館に移り廃城となった。
鶴松館と呼ばれる館(復原)の裏手にある。
案内版など整備されていたようだが、過去の話のよう。
夏だったせいか、草は繁茂しまくり、倒木も目立った。
遺構はかなり残る。本丸への道や、土塁、堀切など。規模は大きい。
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