伊沢氏が留守氏となり、その留守氏の居城であった。
南北朝の頃、尊氏派と直義派で抗争となり、
尊氏派の畠山氏、留守氏、宮城氏が籠った。
が、直義派の和賀氏、結城氏に攻められ落城した。
この後、衰退した留守氏は大崎氏、伊達氏とに挟まれ、内部抗争を繰り返し、
最終的に伊達氏から入嗣が幾度も入り、
元亀年間(1570〜1573)政景の時に利府城へ移り、
廃城となった。
現在、国指定史跡で県民の森になっているが、ある程度草刈りされているだけで、
放置状態に近い。
それだけ綺麗に整備された城址よりは、
遺構を見付ける喜びは残されているとも云える。
岩切駅から歩いて行くと、民家横から登り道となり、
針葉樹林帯で薮化してはあるが、早速平坦面が数段あり、
石碑を過ぎると、空堀と土塁がある。
ここからしばらく遺構らしい跡が消えるのは、
戦前の小学校の遊戯運動場となっていたせいか。
まず東の曲輪に辿り着く。北側に枡形のような土塁が残る。
南側には櫓台のような物があり仙台平野を睥睨できる。
ここから西曲輪の間には堀切と土橋があり(中央・右端画像)、綺麗に残っている。
西曲輪が本城であろうか曲輪間は丁寧に堀切で切ってあり、
中でも本丸下の大堀切は見事である(左端画像)。
また谷にも手が入っているようで堀から掘り込んであるように見える。
南北朝の頃築城されたと推測されている。
天文年間(1532〜55)には伊達氏の領地で四保定朝が四保館におり、
慶長年間(1596〜1615)には屋代景頼が城主となり、
元和元年(1615)原田宗資が入城し、
嗣子の甲斐宗輔が城主となり要害の領主として治めた。
「樅の木は残った」で有名な寛文事件で断絶後、
天和元年(1681)柴田氏が入り、明治維新まで治めた。
「樅の木は残った」のせいなのか、公園化されていて、
三の丸跡は運動場のようになってしまっている。
その北東側には当時の物かはっきりしないが曲輪や土塁らしい跡がある。
一方、四保山の山頂付近には本丸、二の丸があったようだが、
本丸には観音像があり、二の丸跡に井戸跡が残る。
曲輪構造はそこそこ残っている。二の丸から南東の方へ数段帯曲輪らしい跡もある。
慶長13〜15年(1608〜10)中内城(元城)城主の砂金実常が築城し、
約90年、伊逹村興が20年、享保7年(1722)伊逹綱宗の孫、
村詮が2千石で入り、以後幕末まで子孫が続いた。(大系より)
現在は、高台の上にあり、城山公園と小学校になっており、
遺構ははっきりしない。
小学校の東側に堀切の跡らしい道路があった(左3画像)。
また南側には堀の跡だったのか、小川が流れていた(最右画像)。
嘉吉年間(1441〜44)小山九郎業朝が下野小山郷から移り住み、村田氏を称し、
伊達家の家臣となり築城したという。6代紀伊守近重に男子がなく、
伊逹稙宗の9男宗稙が婿入りし、永禄8年(1565)7代目を継いだ。
その後仏門に入り、万好斎と名乗ったが、天正19年(1591)領地を没収され、
桃井郡長井に移された。慶長8年(1603)から翌年にかけては伊逹家の御蔵入地となり、
城代として後藤三郎右衛門が入った。慶長10〜17年には石川昭光が居住した。
18年には、政宗の7男宗高が7歳で3万石の領主となったが、
20歳で亡くなった。その後は伊逹家の直接支配、寛永6年(1629)奥山大学常良が入るも、
寛文元年(1661)子の常辰の時に黒川郡吉岡邑に所替えとなった。
その後、田村右京亮、大松沢甚右衛門実泰、芝多文之丞常春と替わり、
芝多氏が184年間居住したが、慶応2年(1866)片平大丞教敬が入るも、すぐに明治維新となった。(大系より)
村田町役場のすぐ裏手の城山に残る。
最高所に本丸があり、東と南に延びる尾根に曲輪が配されている。
本丸は広い平坦地であるが、小高くなった部分がある、
本丸の南側には空堀が残っている(左2画像)。
また、北西側の歴史みらい館への間に堀切が2本残る(最右画像)。
後藤美作が居住し、元亀2年(1571)から葛西氏家臣、
有壁尾張守、同安芸守、同摂津守が天正18年(1590)まで居住したという。(大系より)
大崎氏家臣、後藤美作、菅原帯刀の居館、後に葛西氏家臣、有壁尾張守、同安芸守、同摂津守3代の居館であった。(現地標識より)
現地標識には、山頂の平坦部は長方形で、土塁が平坦部の北側から北東へ○り、北には腰郭がまわる(ママ)とあるが、
藪だらけのせいで確認できなった点もあるが、現実は違った。
登城口から登ると(最左画像)、すぐに本曲輪らしい平坦地にたどり着く(左2画像)。
ここの南側には横堀が走り(左3画像)、その先に腰曲輪があった。
本曲輪から西へかなりの藪であるが、先に繋がっているようなので行ってみると、
5mくらいはある堀切がある(左4画像)。
堀切の先には小さな曲輪があり、西側にやや低くなっているが土塁らしい跡が残る。(最右画像)
その先は4mくらいの堀切があり(下段左画像)、渡ってみると、もう1本堀切があったのか、
薄く痕跡が残っていた。
その先はどんどん標高が上がっていくが、城址らしい雰囲気からは外れていく。
最高所に上がると、尾根は3つに分岐し、南は下り、西へ行く尾根には、
1mくらいの堀切が残っていた(下段右画像)。
その先へ尾根が続いていたが、未確認である。
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