大崎氏家臣氏家氏が築城した。
その後、政宗の居城とするために家康から命ぜられた榊原康政が改築した。
1603年に伊達政宗が青葉城に移るまで本拠地であった。
その後、四子宗泰が1万5千石で領主となった。
現在は公園化され、青葉城から移された、穏かな政宗像が立つ。
曲輪も広く、堀切や土塁で堅固だったことが分る。
ただ青葉城に比べれば、やはり小さい。
奥州探題として勢力のあった大崎氏の本拠地。
12代義隆で滅亡し、廃城となったらしい。
現在は名生官衙遺跡と重複しており、農地となっている。
土塁や堀の跡がうかがえる。
室町時代に大崎氏により築城された。その後、大崎氏家臣古川氏の居城となった。
大崎氏滅亡後、木村氏のものとなったが、一揆により失脚。
その後、伊達政宗家臣鈴木家のものとなり転封の後廃城となった。
現在は古川第一小学校となって、かつての堀だったであろう川が流れる。
大崎氏の後に伊達家のものとなり、伊達家家臣後藤氏がそのまま幕末まで支配した。
現在は神社と公園となって土塁や曲輪の跡、井戸が残る。
大崎氏の支族涌谷氏の居城。その後伊達家家臣亘理重宗のものとなり、
幕末まで亘理氏が支配した。
現在は角櫓と石塁が残る。涌谷神社がある辺りが本丸跡で、
その他に二の丸もあるようだが、未確認。
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