上原氏が応仁元年(1467)より居城したが、天正10年(1582)に落城したという。
曲輪が東西に4つ横並びの状態で残っているが、中でも一番東にある曲輪が、
横の曲輪と堀切を挟んで、2段の腰曲輪から構成されて発達した形をしている。
犬飼川を防御線としたのだろうか。
居館跡であるが、詳らかな歴史は分らない。
すぐ近くにある、犬甘野城や下条砦は山全体に入らないように紐の柵がしてあり、進入できず、
残念である。
北東側に幅約2メートルの空堀がある。中心部分は墓地となっている。
長沢氏の居城という。長沢家綱は明智光秀に従い、本能寺で手柄を上げた後、
山崎の戦いで討ち死にしたという。
麓から登って行くと、東端の大堀切に辿り着く。
ここを登ると曲輪群がある。石塁を伴った虎口が南北に1つずつ、
さらに曲輪を区切る石塁や礎石や列石、枡形虎口も残っている。
この枡形虎口から織豊系の物と推定され、
長沢氏が明智光秀に従ってから改修をした物だろうということである。
この曲輪群から堀切2本を挟んで南西に位置する曲輪は発達していない初期的な形を残している。
恒常的な城ではなく、一過性の城であったようである。
城址は、西山霊園や畑となっていて、よく分らない。
山陰道のすぐ北に位置する曲輪が本丸であったようで、腰曲輪らしい跡も残る。
亀岡市史に書かれてある比較的遺構のはっきりする北東の曲輪も、
開発の手が進んだせいか、土塁がはっきりせず、残念であった。
天文法華の乱で叡山門徒に焼き打ちにあった。
山本氏の出城として利用されたとも。
白雲稲荷神社の裏手の城山が城址。東山から向うと、
堀切があり、曲輪の跡がある。狭い尾根上に平坦地があり、
しばらく北上すると、虎口らしき切岸があり、遺構はそこまでのようである。
規模は小さい。
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