詳らかな歴史については未調査。
現在の嵐山の頂上付近にあったらしいが、頂上より1段下ったところに、
曲輪状の平坦地がある。それ以外は、よく分らない。
嵯峨天竜寺の荘園の代官であった、国人物集女氏の居城。
信長の上京によって侵食される中、最後まで抵抗したが、物集女忠重は、
討ちとられ、物集女氏の滅亡とともに歴史から姿を消した。
現在は、東側に水堀や土塁が残っている。城内には、祠もあり、
畑となっている。
秀吉により1万6千石で、谷衛友が城主となった。
現在は、城門が復元されていて、公園となっている。
西側に流れる上林川への渓谷を守りに利用していたことが、
今も残る堀切や曲輪跡から分る。
左衛門屋敷ということだが、完全なる山城跡である。 和久氏の居城であったが、明智光秀に滅ぼされ、以後和久氏は帰農したという。 麓の山家城跡から東へ登って行くと、曲輪が出現し、本丸である。 本丸から東に大堀切があり、二の丸があり、さらに北にも曲輪がある。
塩見頼勝の3男利勝が城主。その子、家利の時に落城したと云う。
永禄8年(1565)に赤井・荻野氏が侵入してから、
天正7年(1579)の明智光秀の丹波平定時までは不明とのこと。
公園化されているものの、なかば薮化していてもったいない状況。
本丸は完全に公園化されフラットな運動場のようになってしまっているが、
曲輪の跡や堀と土塁の跡はよく残っている。
横山城として、塩見(横山)氏の居城があった。が、頼氏の頃に、
赤井氏の侵入により、落城し、塩見氏は支配もしくは滅亡したようである。
本格的な天守閣が築かれたのは、明智光秀によると伝承される。
光秀の後、7代替わり、朽木稙昌が寛文9年(1669)に藩主になった後は、
明治維新まで朽木氏が続いた。
現在は、天守閣が再建されている。
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