詳らかな歴史は不明
小高い丘の山頂部に主郭を置き、腰郭など残る。
搦め手の東側に堀切の跡らしいのが残っている。
説明版は朽ちて倒れていた。
神社の裏手に堀切が2本残る。北西にある郭は竹薮となっているが手付かずのようだ。
佐川四郎左衛門が南朝方の重鎮として居城した。
興国元年(1340)北朝軍と戦い敗退、翌年津野連合軍に敗れ、ここを放棄した。
その後、津野氏の縁者佐川越中守(中村氏)が占拠し、津野氏は180年前進基地とした。
その後、長宗我部氏の重臣久武内蔵助の居城となったが、水不足を嫌い、現在の佐川城に移り廃城となった。
(現地説明版より)
最初に登り切ると石塁を伴った虎口で、西側が南西の郭で櫓台のような跡がある。麓を見張るためか。
畝状竪掘を経由して北西に進むと、堀切があって主郭に至る。
主郭から南東部の郭にかけて、12本堀切が断続的に続くのが圧巻である。
天正元年(1573)頃、長宗我部元親の重臣だった久武内蔵助は居城である松尾城の水不足を嫌い、
佐川城を築城した。慶長6年(1601)山内氏重臣の深尾重良が1万石で入った。
元和元年(1616)の一国一城令で廃城になった。(現地説明板より)
麓は牧野公園となって公園化されている。竪掘が園内に残る。
物見岩を見て少し登って、獣除けのネットから中に入る。
東側に回ると堀切があり、ここから二ノ段に登る。さらにもう1段登ると詰ノ段となる。
この郭内に堀切があり、南側にも郭は伸びる。
堀切から南側に二ノ段の方へ行くと石塁が綺麗に残っている。
詰ノ段からさらに南西に郭が連なる。
一通り郭群があり、自然地形になり、やや踏み跡が怪しくなった尾根に沿って、
しばらく北西方向に進むと堀切があり、西砦に辿りつく。西斜面には畝状竪掘が数本残っている。
津野氏の支城で城主については不明。(大系より)
須崎駅のすぐ西側の城山で、南北に3つのピークがあり、中央の本城台に遺構が良く残っている。
主郭を中心に南側に堀切が2本あり、東側には郭がある。
また北側にも堀切が1本ある。西側には郭があり主郭同様に石塁の跡なのか石が散乱している。
下る道があり、堀切がある。
南の三角点のあるピークは後世手が入ったようで遺構は良く分からなかった。
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