鎌倉初期以来荘園だったが、元中3年(1386)長宗我部氏14代の能重の所領になり、
19代兼序の命で丁野帯刀が城監になったという。(大系・現地説明版より)
東西33間4分、南北34間3分の敷地に周囲を堀で囲んでいたというが、現在は堀は道路となり、
城内も住宅地などとなっている。説明版のある、南西部に小高い祠があり、古城八幡が祀られている。
建久4年(1193)中原秋家が地頭に任ぜられ、嗣子の太郎秋通を初代に代々香宗我部氏が続いた。
親秀の時に安芸備前守との戦いで嫡子の秀義が戦死し、弟の秀通に家督を譲った。
親秀は長宗我部国親の3男親泰を養子として迎えようとして、秀通の反対にあい、
弘治2年(1556)之を謀殺し、親泰が養子になって入った。
親泰の長子親氏は朝鮮の役で戦死し、親泰も文禄2年(1593)出征途中に長門で病死した。
親氏の弟の親和(貞親)が幼少で家督を相続し、関が原の戦いで長宗我部氏が除封となると、
唐津の寺沢広高に仕官した。(大系より)
現在は土塁の上に城八幡宮があるだけで遺構は余り残っていない。
拝原氏が城主であったが、永禄12年(1569)長宗我部氏の安芸攻めの際に討たれ、
国吉城主の国吉玄蕃に与えられた。(現地説明版より)
城の西側の空堀と土塁が残っている。空堀を挟んで両方に祠があるのは珍しい。
長谷川弾正が城主であった。(大系より)
拝原城とは川の対岸でやや西に位置する。
山の突端にある。北西側に竪掘があり、単一の郭の尾根側にはやや浅くなった堀切が残る。
川谷越後守の城を、永禄12年(1569)長宗我部氏の安芸攻めの際に、
国吉甚左右衛門・上村玄蕃親子が攻め取り、玄蕃が元親から拝領した。(現地説明版より)
香宗川がすぐ北側を流れる。
主郭である山頂には神社があり、西側を下ると堀切と郭が残る。
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