北朝方の佐伯経貞(堅田小三郎)の居城で、戦国時代には津野氏、一条氏、長宗我部氏に属した。(大系より)
新庄小学校の裏手にある山(169m)で山頂部に、主郭と櫓台の様な跡があり、主郭には鳥居と祠がある。
南西のピークにかけて5本堀切がある。
南西のピークにも主郭側に1本堀切があり、南の尾根に2本堀切が残る。西側にも堀切があったかと記憶が曖昧である。
一方、主郭の東側にも堀切が3本あり、北側斜面に石塁を伴った畝状竪掘が10本以上残っている。
鎌倉時代後半には既に佐竹氏は久礼におり、北朝方の細川氏配下だった。
その後、津野氏、一条氏配下で活躍したが、元亀2年(1571)長宗我部氏に降り、これに仕えた。
(大系より)
久礼中学校の裏から道があり少し登ると、竪掘に至る。
登りきった所が二ノ段で虎口に石塁の跡が見られる。
やや東西に広い二ノ段を横切り南側から回り込むと、
主郭である詰ノ段の虎口に至る。主郭は土塁で周囲を囲い、
今、社がある裏手は1段高くなっている。詰ノ段中央の北側に虎口があり、
北から回り込んで西へ三ノ段に至る。三ノ段も土塁に囲まれているが、やや藪化していた。
三ノ段の西側には、堀切や畝状竪掘がある。
三ノ段から南側に詰ノ段へ回りこんだ尾根には、堀切が5本残っている。
二ノ段から東へ下った尾根沿いにも堀切が2本残っている。
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