宗円八郎左衛門が城主であった。八郎左衛門は安芸国虎との戦いで討死したというが、
以後、宗円氏の居城であった。(大系より)
一方、現地石碑によれば、安芸国虎に属し、永禄12年長宗我部氏との戦いで討死したという。
裏にある山を登ると、祠がありさらに先にも石塁などで囲まれた祠がある。
さらに道は山へと続くので追ってみると、切岸らしい跡の連続があり、
石塁で補強までされている。畑だったのか、遺構なのかははっきりしない。
さらに登って峠まで行き山頂に行ったが、近代に削られたような跡はあるのだが、遺構ではないよう。
吉田備後守重俊の居城であった。その後、重康、孝俊、右近重年(康俊)と続いた。(大系より)
遺構がはっきりせず、裏にある山へ登ってみると、切り岸のような雰囲気はあるのだが、
土塁や堀切すらない。
元親の家臣吉田備後守重俊の曾孫の吉田右近がいたという。
安芸氏家臣の黒岩越前の持ち城であったともいう。(大系より)
一番下の畑となっていた郭には西側に土塁があり、そこから主郭まで数段割と広めの郭が残り、裏を石塁で固めた土塁も残っている。
鎌倉時代に源氏の武将・夜須七郎行宗(行家)の居城だった。
頼朝の弟希義救援のために出兵するも希義が敗死し、仏ヶ崎から鎌倉に赴いた。
寿永元年(1182)頼朝は伊豆右衛門尉有綱に平家の家人蓮池・平田氏討伐を命じ、行宗と協力してこれを討った。
その後壇ノ浦の戦いでも戦功を上げ、夜須庄を安堵された。
(大系より)
石碑から登ると、畑があり、そこからさらに登っていくと、数段切岸と郭がある。
土塁や堀切と云った遺構はない。
姫倉右京・豊前守が城主で安芸国虎に属していた。
永禄12年(1569)元親の弟の香宗我部親泰・吉良親貞が攻め、落城した。
その後、桑名丹後が城監として城主になったという(大系より)
一方現地説明版によると、
元親の大忍討入の時、長宗豊前守が城を奪取し、姫倉豊前守と称したが、
天正14年(1586)戸次川の戦いで討ち死にしたために嫡子の太郎佐衛門が継いだという。
公園となっている。主郭は腰郭に囲まれている。
主郭から脇へ別の尾根に行ってみると、2重堀切が残っていた。
さらに赤い社のある尾根の手前にも堀切か水路として削られたような跡がある。
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