建武3年(延元元年・1336)にこの城をめぐり、
北朝と南朝とで交戦があったという記録があり、
築城の時期はそれ以前ということになる。
天文年間(1532〜1555)に本山梅慶清茂の持ち城であったが、
永禄3年(1560)に長宗我部国親に落城された。
天正16年(1588)岡豊城から大高坂城に本城を移そうとしたが、
大高坂城の治水工事が上手く行かず、
翌年からここの築城を始め、天正19年に移った。
関ケ原の戦いの後、長宗我部氏は浪人となり、山内家が土佐に入り、
長宗我部家臣の一領具足らは城の引き渡しを拒み、
抵抗を続けた。浦戸一揆の鎮圧後、
慶長8年(1603)高知城に本城を移し、廃城となった。
現在、本丸は国民宿舎や龍馬記念館となっている。
天守閣のあった台地は残り(左画像)、山祇神社がある(右画像)。
小野民部丞の屋敷のあった小野土居の詰めの城である。
南北朝の頃に小野彦衛門が築城したと推測される。現在は式内社小野神社が祀られている。
(高知県南国市中世城館跡より)
小野神社が最後部に鎮座し、周囲に2段腰郭がある。社の裏側は土塁で囲っているが、
社のために後世に築かれたものかどうかは不明である。
二の段の東側に下へ下るみちがあるが、これは当時の物であろうか。
細川氏一族の天竺氏の居城。
文明10年(1478)津野備前守之高が落城させた。天文15年(1546)津野氏が一条氏に降ると、
一条氏の持城となったが、翌年長宗我部国親がここを奪った。
天正2年(1574)一条兼定が家老たちによって豊後に追放された後に、
元親はその子内政を大津城に迎えて、自分の娘を娶らせた。が、波川氏の謀反に加担したりして、
元親の詰問に遭い、最終的に伊予の法華津氏を頼って退去した。(大系より)
小高い丘の山頂部に神社があり、その東西に遺構が残る。
西側には堀切が綺麗に残っている。
一方、東側にも空堀らしい空間があり、北側から階段を上ってくる参道が土橋のようになっている。
長宗我部氏家臣の福留氏が城主。(大系より)
現在は、11代飛騨守親政と12代隼人佐儀重を祭神とする田邊島(隼人)神社が主郭北側に鎮座する、小高い丘となっている。
遺構らしい遺構はないか。
文和2年(1353)2月に光国右近が築城した。
光国左衛門佐が城主。本姓惟宗で安芸国虎に使え、安芸氏滅亡後、長宗我部元親に仕えた。(石碑・大系より)
石碑の裏から上っていくと、石塁が残る辺りに出て、その上には腰郭があり、遺構らしくなる。
主郭の虎口にも石塁が残る。主郭は藪っており、祠が残る。
祠の裏側に回ると、4本からなる、連続堀切が残る。
その先の尾根上に1kmくらいに渡って、切岸と郭らしい空間が多数あるのだが、
後世に作成されたものだろうか。
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