鎌倉時代末期に安芸親氏によって築城されたという。
永禄12年、国虎の時、長宗我部元親に攻められ落城した。
その後、香宗我部親泰が城主となった。
江戸時代には土佐藩山内家家臣五藤氏の居城となった。
曲輪が本丸から南に伸びる。本丸は完全に平坦でなく、
北に2段下る。東は川流れ、北斜面・西斜面も険しい。
本山梅慶が本山城からここに築城し、移った。
その子である茂辰の時に長宗我部元親との戦いが
不利な局面を迎え、城を焼いて本山城に逃げた。
現在も遺構(石塁、土塁、堀切、曲輪)は究めてよく残っている。
詰めの段からしばらく行くと、
井戸跡を経て西詰めの段まで石塁がびっしりとある。
西詰めの段の方が本丸に相当するのか。
信濃から土佐へ移った、秦氏が、姓を長宗我部に替え、
この辺りを領有した。築城時期は、鎌倉時代から南北朝の頃と推測されている。
代々長宗我部氏の城であったが、
永正5年(1508)18代兼序の時、本山・山田・吉良・大平の諸豪族に攻められ、
なんとか千雄丸(後の国親)を一条房家の下に託し、落城し、討ち死にした。
一条房家の仲介で、国親は岡豊城に復帰し、その後、領地を拡大させた。
国親から元親へ代が替わった後、天正13年(1585)に四国統一を果たした。
が、秀吉軍と戦い、敗れ、土佐一国を安堵されるに至った。
天正16年(1588)に大高坂城へ移り、廃城となった。(大系より)
城址は、高知県歴史民俗資料館の裏手に残る。
標高97mの詰城を中心とした主要曲輪と、
南西200mの位置にある支曲輪(厩跡)と詰城から南へ200mにある家老屋敷からなる。
資料館から登ると、三角形の二の段があり、堀切(左1画像)を挟んで、詰の段となる。
詰の段からは礎石の跡も発掘されている。
詰の段から南側に虎口があり(左3画像)、
また西側への虎口を下ると、石塁に囲まれた曲輪となる(左2画像)。
その下に四の段があり、厩跡へ向かう谷に向かって、
数条の竪堀が残っている(最右画像)。
大高坂氏が築城した。その後、南朝に属した大高坂氏は衰退し、
天正16年(1588)岡豊城から長宗我部元親が本城を移した。
が、治水工事が上手く行かず、結局、天正19年(1591)に本城を浦戸城に移した。
関ケ原の戦いの後に土佐に転封となった、山内一豊は、
慶長6年(1601)から築城を始め、慶長8年8月21日に浦戸城から移った。
享保12年(1727)に火災で大半を焼失し、
延享2年(1745)二の丸、寛延2年(1749)本丸、宝暦2年(1753)三の丸が完成した。
大高坂城当時の石垣が発掘され、保存されている(最右画像)。
本山茂辰の家臣、大窪美作守(弁作)が城主とされる。
永禄3年(1560)5月26日、長宗我部国親の元家臣福留右馬允が手引きし、
種崎城から攻め、落城させた。
現在、雪蹊寺横の秦神社に案内板があり、
裏の山に竪堀が2条あったということだが容易に目にできないという。
削平地らしい所は残っているようである(左、中央画像)。
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