扇谷上杉定正の館があったと推測されている。
文明18年(1486)太田道灌が謀殺されたことで有名であるが、その場所は定かでない。
現在、産能大学のキャンパスとなっており、
幅の広い空堀が残っているだけである。
道灌の胴塚のある洞昌院近くには、
主君同様に謀殺された道灌の家来7人の七人塚もある。
永正7年(1510)両上杉氏に伊勢新九郎は叛旗を翻し、
上杉建芳の被官上田蔵人に蜂起させた。上杉勢の大軍に攻められ落城した。
現在は、幸ヶ谷公園となり、
安政6年(1859)から神奈川台場築造で土を持って行かれ、旧状を残していない。
ちょうど花見のシーズンで、花見客に陣取られていた。
北条氏7家老の1人、多米氏の持城。
現在の本覚寺付近が城址と推測されるが、最早遺構もなく、はっきりしない。
権現山城とは国道1号、東海道本線、京浜急行とを挟んだ地にあり、
同一尾根上の一城別郭と見られている。
因みに本覚寺は、初代アメリカ公事館となりハリスが滞在した。
平安時代末期頃から波多野氏の居館があったと推測される。
『新編相模国風土記稿』により、現在石碑(右画像)の立つ、
寺山が城址と推定されたが(左画像)、
昭和62年〜平成2年までの7次に渡る発掘調査では何も発掘されず、
空堀と信じられて来た場所から、雨乞いに使われていた馬歯が大量に発掘された。
一方、西にある実朝御首塚南の東田原中丸遺跡から、
平成12年からの調査では鎌倉時代の館跡と見られる遺跡が、
前期・後期に渡り、
さらには中国製の青磁・白磁も発掘され、
波多野氏の居館跡との可能性が浮上している。
(現地案内板より)
石碑の立つ場所は、金目川と空堀らしい所で挟まれているが、
空堀らしいのは金目川の川跡かもしれず、遺構も発掘されていない。
また、中丸遺跡の場所は、今は埋め戻されているが、
肥沃な台地上にあり、こちらの方が居館を置くに相応しい場所のように思えた。
村岡平太夫(三浦)為通が、前九年の役の戦功により源頼義から三浦の地を与えられ、
康平年間(1058〜65)に築城したと伝わる。以後、義明まで4代続いた。
治承4年(1180)衣笠城の戦いで、頼朝に与した結果、
河越重頼、江戸重長、畠山重忠率いる軍勢に攻められ、攻防の末、
義明だけ残り、討ち死にした。
その後、和田義盛を始め、鎌倉幕府で重用されたが、
北条氏と対立するようになり、泰村の時鎌倉で滅び、廃城となった。
(大系と現地案内板より)
大善寺の裏手に位置する。
平安時代から鎌倉以降にかけて規模は大きくなったと推測される。
鎌倉時代以降は使用されなかったのか、遺構は余りないが、
本丸?の裏手に大堀切で尾根を切ってある。
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