相模・武蔵(神奈川)9



糟屋館権現山城青木城波多野城衣笠城

糟屋館


伊勢原市【最寄り駅】小田急電鉄伊勢原駅

扇谷上杉定正の館があったと推測されている。 文明18年(1486)太田道灌が謀殺されたことで有名であるが、その場所は定かでない。
現在、産能大学のキャンパスとなっており、 幅の広い空堀が残っているだけである。 道灌の胴塚のある洞昌院近くには、 主君同様に謀殺された道灌の家来7人の七人塚もある。

空堀1 空堀2

権現山城


横浜市【最寄り駅】京浜急行神奈川駅

永正7年(1510)両上杉氏に伊勢新九郎は叛旗を翻し、 上杉建芳の被官上田蔵人に蜂起させた。上杉勢の大軍に攻められ落城した。
現在は、幸ヶ谷公園となり、 安政6年(1859)から神奈川台場築造で土を持って行かれ、旧状を残していない。 ちょうど花見のシーズンで、花見客に陣取られていた。

権現山城遠望

青木城


横浜市【最寄り駅】京浜急行神奈川駅

北条氏7家老の1人、多米氏の持城。
現在の本覚寺付近が城址と推測されるが、最早遺構もなく、はっきりしない。 権現山城とは国道1号、東海道本線、京浜急行とを挟んだ地にあり、 同一尾根上の一城別郭と見られている。
因みに本覚寺は、初代アメリカ公事館となりハリスが滞在した。

本覚寺

波多野城


秦野市【最寄り駅】小田急電鉄秦野駅

平安時代末期頃から波多野氏の居館があったと推測される。 『新編相模国風土記稿』により、現在石碑(右画像)の立つ、 寺山が城址と推定されたが(左画像)、 昭和62年〜平成2年までの7次に渡る発掘調査では何も発掘されず、 空堀と信じられて来た場所から、雨乞いに使われていた馬歯が大量に発掘された。 一方、西にある実朝御首塚南の東田原中丸遺跡から、 平成12年からの調査では鎌倉時代の館跡と見られる遺跡が、 前期・後期に渡り、 さらには中国製の青磁・白磁も発掘され、 波多野氏の居館跡との可能性が浮上している。 (現地案内板より)
石碑の立つ場所は、金目川と空堀らしい所で挟まれているが、 空堀らしいのは金目川の川跡かもしれず、遺構も発掘されていない。 また、中丸遺跡の場所は、今は埋め戻されているが、 肥沃な台地上にあり、こちらの方が居館を置くに相応しい場所のように思えた。

寺山 石碑

衣笠城


横須賀市【最寄り駅】JR横須賀線衣笠駅

村岡平太夫(三浦)為通が、前九年の役の戦功により源頼義から三浦の地を与えられ、 康平年間(1058〜65)に築城したと伝わる。以後、義明まで4代続いた。 治承4年(1180)衣笠城の戦いで、頼朝に与した結果、 河越重頼、江戸重長、畠山重忠率いる軍勢に攻められ、攻防の末、 義明だけ残り、討ち死にした。 その後、和田義盛を始め、鎌倉幕府で重用されたが、 北条氏と対立するようになり、泰村の時鎌倉で滅び、廃城となった。 (大系と現地案内板より)
大善寺の裏手に位置する。 平安時代から鎌倉以降にかけて規模は大きくなったと推測される。 鎌倉時代以降は使用されなかったのか、遺構は余りないが、 本丸?の裏手に大堀切で尾根を切ってある。

本丸 堀切?

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