横山党の一族糟屋氏の館跡である。
比企能員の聟であったため、建仁3年(1203)能員とともに自害した。
現在は高部屋神社となっており、土塁らしい跡もあるが、当時の物かは定かでない。
また、国道246号線の北側も城域だったようで、
後北条氏の時代には、千鳥ヶ城として存在していたようである。
城主が誰だったのか詳細は分っていない。
後北条氏時代には、藤田氏の所領であった。
現在、舌端状の城址は、住宅地、及び、円光院となっており、
空堀らしい跡や、水神様を祀る、水堀?が残るだけである。
尚、円光院には比較的新しい三浦党石田為久の墓石がある。
弓の名手、畠山重忠を討ち取った愛甲三郎季隆の館跡。
季隆没後に和田義盛の乱に加担し衰退した。
明治時代までは堀や土塁などよく残っていたようだが、
農地化に伴い姿を消した。
現在、稲荷神社の手前に石碑が立っており、
この稲荷神社のある場所の裏手は崖となっており、館跡は台地上に位置している。
詳らかな歴史は分っていないが、規模などからは土着の豪族の物だったか。
現在は、民家の裏手に位置し、脇の稲荷神社から登り道がある。
北側は竹薮で、左端画像のように切岸が見られる。
また南側には小さな堀切があり、さらに南に2mくらいの空堀が残る(中央画像)。
飯田五郎家義は、
石橋山の戦いで敗れた源頼朝を安房へ逃したことと、
黄瀬川の戦いでの戦功を認められ、この地を拝領した。
現在は、富士塚公園となり石碑が残るだけで、住宅地開発の嵐に飲まれたようである。
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