稲毛三郎重成が建久年間(1190〜1199)に築城したという。
その後、北条早雲は永正元年(1504)枡形山に布陣し、立川河原の合戦で、
山内顕定軍に勝利した。その後、後北条氏の支城となったようである。
現在は枡形山広場となり、遺構は見出しにくい。
当日は、ちょうど多くの花見客とかち合い、じっくりと見る余裕もなかった。
14世紀末期から16世紀末期までに利用されたと推測される。 境川を背面に規模はさほど大きくないが、天竺坂を堀切に取り込み、 主郭の前面の虎口を含めた構造は、かなり発達した物である。 現在、草木が繁茂していて、縄張りが理解しにくい。
室町時代中期扇谷上杉定正の家臣太田道灌が築城したという。
上杉朝良の時に北条早雲により攻略され、北条氏の支配下となった。
天正18年(1590)秀吉の北条征伐の際に落城した。
台地状の地形をそのまま城郭にした規模の大きい城址。
東西に空堀と土塁があり、西は2段構えとなっている。
また、各曲輪間の間には深い空堀が残っている。
大森氏が築城したと推測される。
古道を押えるための城であったようで、
遺構は塔ノ峰頂上近辺で規模は小さい。
それでも、本丸を中心に麓からの道からは空堀の跡があり、
また小田原方向には内枡形の虎口(中央画像)や堀切と郭の跡(左端画像)が残る。
西の方面には本丸の土塁がかすかに残る(右端画像)。
大森氏に築城されたと推測される。
中世東海道である湯坂路を押える位置にある。
が、場所は湯本を押えるのに格好の位置で、
寧ろ湯坂路の上からの攻撃は考慮してないように見えた。
土塁や堀切が残るが、古道を押さえるだけの小規模な印象が残った。
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