波多野氏の一族沼田氏が平安末期にはこの辺りを領していたらしい。
その後、室町時代に入り、大森氏の居城となった。
果樹園となってしまっていて本丸の遺構はよく分らない。
が、本丸北にある一段下がった所にある、
交通壕らしき道(下画像左から3番目)はよく残っている。
また堀の跡(下画像左から2番目)も一部残っている。
歴史を書いた碑がどこかに存在したようだが、残念ながら見落としてしまった。 荒井城址公園となっているが、他サイトの情報の通り、何も見るべき所がない状態。 『荒井・城址公園』でなく、『荒井城址・公園』の意味だろう。 唯一、堀?の跡が残っているくらいか。
小仏峠のすぐ南側にあり、
後北条氏によって甲斐への防衛線として築城されたとされる。
茶店の西側に2段くらいの切岸があったが、当時の物なのか断定できない。
日本城郭大系には、烽火台のあった景信山と比較すると、
遺構が残っていると書かれてあるが、似たり寄ったりな印象しか持てなかった。
鎌倉時代に三浦党の筑井太郎二郎義胤が築城という。
永正5年(1508)以降、
後北条氏の家臣内藤氏が城主であったことは確かであるようだ。
その後、度々甲斐武田氏に攻められている。
天正18年(1590)秀吉の北条征伐の際に、
城主内藤景豊は小田原に行っていて不在で、
本多忠勝、平岩親吉に攻められ、落城した。
現在、公園化され、比較的容易に登られる。
尾根の西に本丸があり、麓から古道が残っており、
虎口は内枡形となっている。
本丸南東部の土塁は、遺構ではないと、日本城郭大系に記載されている。
本丸から東の太鼓曲輪の間に堀切(左端画像)があり、
当時は引橋が掛かっていたという。
太鼓曲輪の下にある家老屋敷と呼ばれる曲輪下に、
石塁(中央画像)が残っている。
他の曲輪にも石塁らしき跡が少し残ってはいる。
太鼓曲輪のさらに東側にも現在飯綱神社のある曲輪が残っている。
土肥実平の詰めの城とされて来たが、少なくとも現在の遺構は、
大森氏や後北条氏による物と考えられている。
遺構は麓の城願寺から登り、尾根に出て、フラットになる辺りから残っている。
本郭から第5郭まで東に伸びており、堀切と土塁で区切っている。
駅前に土肥氏館跡の石碑がある。
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