初代有田九郎兵衛吉貞、二代九郎兵衛吉久、三代藤兵衛貞吉の墓が、
麓の金剛寺(右端画像)に現存する。
鎌倉時代から室町時代初期にかけての城であったらしい。
(現地案内板より)
金剛寺より保土ヶ谷方面に行ったところに城山稲荷(右2画像)への登り口があり、
稲荷の横に石碑がある。
その裏手の竹藪の中に大きな堀切らしい跡があったが、
後世に作られた道だろうと思い、撮影しなかったがどうだったのか。
子神社の裏手に今井の丘公園があり、公園化に伴い削られたような印象があるが、
本郭などあったようである(左端画像)。
淵辺義博は、淵野辺村の地頭であった。
足利直義の家臣として、建武2年(1335)7月に鎌倉で大塔宮護良親王を殺害し、
同月に駿河国手越河原の合戦で戦死している。(大系・現地石碑より)
現在は水道施設と送電線の横に石碑が立つのみで遺構はない。
すぐ北側を境川が流れており、暴れ川なのでやや程度比高の上がった石碑周辺に館を構えたか。
平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した糟屋左衛門尉有季の館跡、
または粕屋氏歴代の城であったと伝わるが、室町時代後半のかわらけや陶器類が出土していることより、
上杉定正に関連する城と推測されている。
(現地案内板より)
現在、丸山城址公園として整備され、
糟屋左衛門尉有季館の246号線を挟んだすぐ北に位置する。
土塁が一部残っている。
芝生の広場となっている中心部分を囲むように帯曲輪が囲み、かつては空堀が巡っていたとのこと。
甲斐武田氏の家臣である、志村氏の居館跡と推定されている。(現地説明板)
2重の堀で囲まれていたらしく、現在でも水掘の名残の水路が周囲を廻っている。
また西側に現在でも2mくらいの高さの土塁が残っている。
水路で囲まれたエリア内は子孫であろう、志村氏の居宅だらけである。
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