平安末期、村上源氏武蔵横山党の源季兼が海老名氏を名乗った。
室町時代、鎌倉の関東管領に従った。
永享10年(1438)持氏が将軍に叛旗を翻すのに従い、
将軍義教の軍勢と戦うも箱根早川尻での決戦に敗れ、
持氏は鎌倉永安寺で自害し、11月に海老名城も落城、滅亡した。
(神奈川の城より)
有鹿神社付近(左画像)にあったとされているが、遺構は何もない。
神社から西に少し行った所に、季定の墓とも云われる海老名氏の霊堂がある。
13世紀〜15世紀にかけての遺跡で、渋谷一族の大谷氏との関連が推測されている。
現在、周辺は住宅地となり、浜田歴史公園となっている。
掘立柱建物跡8棟、竪穴状遺構1軒、溝状遺構6本、井戸1基、柵列5本、土坑が発掘されている。
遺構は台地東側の谷間および台地上の2箇所からなり、
谷間からは多くの遺物が出土しており、
台地上の方からは少なく牧場として利用されていたと推測されている。
(現地案内板・)
鎌倉時代、渋谷庄司重国の子吉岡太郎光重の4男重茂が薩摩に下向する前に、
居を構え大谷四郎と名乗っていた。(大系より)
現在、館跡は中学校になっているが、
北側の斜面は当時のままなのか雰囲気がよく残っている。
慶長年間に小田切美作守須猶またはその父光猶が居住していたのを、 横溝氏に与え、現在横溝屋敷(みその公園)となっている(右1,2画像)。(大系より) その背後にある殿山が城址とのことであるが、畑となっていたのか、 大系に記載されてあるように、土塁や堀の跡らしい物はよく分らなかった。
歴史的背景は手元にないので割愛する。
昨年(2011年)発掘調査を行った後で、埋め戻されており、
目下篠原城址緑地として整備されている段階だった。
住宅地を回った所に横堀らしい跡があるのだが、
立ち入り禁止の標識があり、それに従った。
横浜市の土地であるので城址緑地として開放して欲しいものである。
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