富田城の支城。野間武蔵の居城であった。建部城と同時期に築城され、その後も改修を受けた。(現地説明板より)
建部城跡から北側へ藪を抜けると至る。
西側に土塁らしき跡が残る。北側に幅の広い空堀があり、登ると二郭で削平地となっている。
その先に、三郭、四郭があったようだが、未確認。
鎌倉時代に建部氏により築城された。(現地説明板より)
野間城とは隣接している。
建部神社の境内となっており、遺構は分からない。
禰寝清治が築城した。
7代清成の時に一時、本城を国見城に移した。
文禄4年(1594)島津氏により、日置郡吉利郷に移封されるまで禰寝氏の本城であった。(大系より)
諏訪神社から登って行くと、民家脇に標識がある(左端画像)。
東の郭らしい小山には登れる。また、その西側の主郭との間にある、小山にも強引に登れる。
東の郭は東側が1段高くなっている。
主郭らしき、左側の小山(右端画像)に向かって畑の中を進んで行くも、10m手前辺りで凄まじい藪に遭い、進めない。
現地に住むおばあさんにも行くなと忠告を受けた。
親切に教えてくれたおじさんもこの辺りでダニにやられて大変だったとか。
踏入五郎弘氏が領し、上井氏を称した。
文明17年(1485)帖佐城主島津忠兼に攻められ、城将は城を捨て去った。
弘治年間(1555〜58)島津貴久が弟忠将に加封し、さらに子の以久が承継し、
天正16年(1588)以久が子の彰久に清水を譲り、上井城に入ったため、
上井氏は永吉に移封された。(大系より)
国分の南公園から登れる。標識は全くなかった。
だが、登ってみると、主郭手前に岩盤を削った堀切や、主郭の櫓台、
主郭より東側の尾根には帯郭など残っている。
鎌倉時代初期から天草氏の一族、長島氏の居城だった。
天文23年(1554)但馬守鎮真の時に相良氏の圧力に屈し、島津氏を頼って出水に逃れた。
その後、天草越前正が居城していたが、
永禄8年(1565)野田の島津常陸介忠兼が攻め寄せ、志岐氏・栖本氏の援護もあり、落城させた。
が、その3ヶ月後、忠兼も島津義虎に謀殺された。直後に悪疫が流行し、忠兼を祀る若宮神社を建立した。
(現地説明板より)
若宮神社のあるのが主郭で、西の海側へ切岸が残る。そのまま海へ下る急斜面の道がある。
東西に細長い台地で、麓から上る石段は当時のままということで、登りきった場所が虎口で、土塁も残っている。
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