検見崎氏の居城。
道路のために破壊されている。それでも主郭とその東側に竹藪と化している空堀が残っている。
また西側から南側は崖のようになっている。(説明板が消えたようだ。)
肝付氏の城。城の北側グンジンドンの丘は鎌倉時代から戦国時代まで狼煙を上げる場所であった。
(現地説明板より)
道路により、破壊されたらしい。道路の東側に標識があり、登ると祠がある。
遺構は良く分からない。
道路の西側の民家に入る道が大堀切だったのか、
今も崖の間を道が走っている。
伴兼俊が長元9年(1036)肝属郡弁済使として肝属に移り、築城した。
南北朝の時には南朝方に属し、北朝方の島津氏に対抗した。
明応3年(1494)兼久の時に島津忠昌に攻撃を受けたが退け、永正3年(1506)再び島津忠昌に攻められたが、
志布志城の新納忠武の手で一掃した。
その後、肝付氏は兼興の時に12万石の戦国大名までになった。
永禄9年(1566)兼続の時に島津勢に囲まれ、志布志に逃れ、自刃したと伝わる。
良兼はその後も高山城を本城としたが、
天正2年(1574)禰寝氏が島津氏に屈すると、弟の兼亮も降伏し、天正5年(1577)所領を没収され高山のみとなり、
天正8年(1580)阿多へ移封となり、廃城になった。(大系より)
国指定遺跡で大規模である。
国見連山に続く山の中にあり、虎口は西を向いている。
大手口を入るとすぐ南側に行く分岐があり、見張り場であった湯沸場跡がある。
大手口を左に登って行くと球磨屋敷と呼ばれる郭や大来目神社がある。
そこを通過して、東へ登ると狭隘な大手門跡がある。
さらに進むと北側に山伏城があり、南側には二の丸と搦め手口がある。
東へ進むと本丸の手前で、北側に枡形と呼ばれる郭がある。
反対側が本丸で、「コ」の字を形をしており、両サイドから攻撃を受ける構造になっている。
登り切る手前は内枡形になっている。本丸は土塁に囲まれている。
一方、本丸の北東側には、馬乗馬場と呼ばれる広い郭が広がり、今は薄暗く不気味である。
馬乗馬場からさらに奥曲輪が3つあり、手前の2つに行ってみたが、シダ類などで藪っており、
ひと気もなく不気味であった。
禰寝氏7代清成が元亨元年(1321)築城し、富田からここに本城を移した。
文和2年(1353)に南朝方の楡井頼仲が攻めたが失敗した。
その後、富田城に移り、野間武蔵が守った。
文禄3年(1592)17代重張が富田城から本城を移そうとしたが、
島津氏により吉利郷に移封された。(大系・現地説明板より)
根占の町の北側にある、切り立った台地上に位置する。
圧巻なのが、東側の搦め手に残る2重の空堀の外側の空堀であろう。
深さは5m以上、幅は10mくらいあり、藪化しているが綺麗に残っている。
また内側にも深さ2mくらいの空堀が残っており、北側は堀がそのまま交通壕として下っている。
一方、西側は畑と化して埋められたのか残っていない。
富田城の支城。天正2年(1574)肝付氏が落城させた。(大系より)
標識があるものの、沢を登る道はジャングルそのもの。倒木や藪、シダだらけである。
何度か引き返し、最後は意を決して登った。
東西の尾根にそれぞれ郭を展開し、その間の堀切らしき所に沢を順調に登って行くと辿り着いたようである。
海側の西側は削平地があり、数段郭が続く。
一方、東側は藪が嫌になり、未確認である。
このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。