伊地知氏の出城であった。天正2年(1574)に伊地知氏が島津氏に降伏し、
垂水領は島津氏に没収された。文禄年間(1592〜1596)に伊集院忠棟の属城となったが、
その後は新城島津家の私領となり、麓に館が築かれ、廃城となった。(大系より)
新城に城址の標識があり、民家脇から農園に登る(左端画像)。
登城路の北側の痩せ尾根に堀切がある(左2画像)。この登山道は後世に開かれた道か。
農園に出るが、脇をすり抜けさらに登って行くと、
自然崩壊か堀切なのか、深い堀切状の溝があり、その下った西側には平虎口と郭のような遺構がある(左3,4画像)。
そこの溝を越えて登った先の郭石の祠があり(左5画像)、
藪っているものの、北から西にかけて土塁らしき高まりがあった。
楡井頼仲が築城。享保9年(1724)22代藩主島津継豊は叔父の島津久儔を領主とする一族の私領地とし、
花岡島津家を創立させた。
(大系・鹿児島県の歴史散歩より)
小学校に大きな看板があるものの、裏手の城址は、ドクターヘリの着陸可能な運動場?と化し、
小学校の方へ南面は数段切岸のような構造があるものの、遺構かどうかも怪しい。
南北朝時代以降、肝付氏の支族、鹿屋氏の居城であった。
天正6年(1578)肝付氏の没落後、
天正8年(1580)から1万3千石で伊集院忠棟は鹿屋方面の領主となり、15年居城し、都城に転封後、
島津相模守久信が一時居城し、その後廃城となった。
(現地説明板・大系・鹿児島県の歴史散歩より)
せっかくの城山公園だが、各郭は4つほど、独立して残っているものの、
これといった遺構らしい物が残っていない。
大系の縄張図とも地形が一致せず、よく理解できない。
鎌倉時代に、富山(禰寝)小太郎義明が姶良方面を領し、義宗、義清と続いた。
建武3年(1336)肝付八郎兼重が挙兵すると、弟の兼成が当城を落城させた。
観応2年(1351)2月富山一族の籠る横山城を落城させたが、帰路、志々目某に討たれ、
そのまま当城に入城した。その後すぐに楡井頼仲が落城させるも、
翌3月、禰寝清成に落城された。楡井氏と禰寝氏の攻防は続き、
島津氏久が入城した。その後、享禄3年(1530)肝付兼興が旧領を回復し橋口但馬守が城主となり、
兼続の時代には完全に肝付氏の支配下になり、
天正5年(1577)島津氏に降るまでその支配は続いた。(大系・現地説明板より)
内城を中心として12城から構成されていた。
北側を川に守られた内城の西側に説明板があるものの、看経所と呼ばれる郭には急坂を登れるものの、
藪がすごく、他の郭には進めない。
看経所の北西側には土塁らしい跡が残る(中央画像)。
また説明板の右側、内城の南側には藪化しているが、空堀と土塁らしい跡が残っている(右端画像)。
南北朝の頃に肝付兼重に与した楡井頼仲の居城だった。(大系より)
四十九神社の背後の城山が城址で、
狭い尾根上に山頂部から南側にかけて、堀切が数本残っている。
南側を下ると、枡形のような箇所がある(右端画像)。
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