渋谷五族の1つ鶴田氏の居城。
島津元久と手を結び、他の4族(東郷氏、祁答院氏、入来院氏、高城氏)はそれを憎み、島津守護の伊久も渋谷4族に加担し、
応永8年(1401)3月合戦となり、10月25日に千町田で大合戦となり、鶴田氏は元久の勧めで、
菱刈氏を頼って落ち延び、その後谷山に移った。
その後、鶴田は祁答院重茂の領地となったらしい。
戦国期には、鶴田左馬介、または鶴田駿河守の名前が残っている。
(現地合戦城説明版・大系より)
現在、前川を渡った城址の麓にこじんまりとした石碑が立っている。
背後の山が城址で、数段郭や土塁のような跡があるが、
果たしてそれが遺構なのか判断しかねた。
田間田の前川近くに合戦での首塚が残っている。
前川を渡った先に、梅君ヶ城に陣を布く島津歳久に対して秀吉軍が陣を置いた鳶ノ巣の陣の跡と伝わる、
太閤陣跡がある(右端画像)。
天正、文禄の頃(1587〜1592)島津歳久の城であった。
伊東氏滅亡の際に、伊東権頭玄蕃の妻を連れてきて、梅君として側室にして住まわせた。
島津国史によれば、秀吉が曽木に向かって出発後、秀吉の小姓が屏風の絵を切り取って行ったことが分かり、
歳久は鎌田因獄政金が返還交渉に出掛け、秀吉は小姓の指を斬り、絵と共に返したという。
(現地阿説明版より)
現在は歳久の霊を祀る平松神社の境内となっている。
背後の痩せた小山に登ってみたが、特に遺構らしいものもなかった。
麓には鶴田の御仮屋跡があり、その背後に丸尾城とおぼしき城址があり、
切岸が数段残っている。
垂水島津家の4代久信が築城し、慶長16年(1611)に垂水城からここに移った。
築城前は山林原野だったため林之城と呼ばれ、館、お仮屋と呼ばれた。
(現地説明板より)
現在は小学校の校門の横にお長屋だけが残っている。
応永19年(1412)伊地知季豊の時、島津久豊に垂水本城村を与えられた。
9代重興は、肝付氏と姻戚関係になり、永禄4年(1561)肝付・伊地知・彌寝氏連合軍は島津貴久に敗れた。
元亀3年(1572)島津義久は垂水に進出し、肝付氏の入船城を包囲した。
天正2年(1574)まで戦いは続き、ついに島津氏に降伏した。
重興の孫の重頼が文禄4年(1595)に朝鮮出兵の際に罪を犯したとされ、所領を失った。(大系と現地説明板より)
シラス取りに遭っている山が主郭だったか、福寿寺跡の石塔は残っているものの、
遺構は、福寿寺への道に堀切のような雰囲気があり、福寿寺付近は切岸状になっていたことくらいか。
鎌倉時代より肥後氏の居城。その後、応永19(1412)に伊地知季豊が垂水に入り、
その支城として天正2年(1574)まで使用されたと推測される。(大系より)
現在は、永正3年(1506)に肥後文次郎盛明が島津忠昌を施主とした勝軍地蔵が麓にある。
その背後の突端状の尾根から強引に登る。
しばらく登ると郭らしき、人工的に削平されたような空間に出た。
さらに南へ尾根を下って進むと植林された空間があり、少し登ると三角形の郭らしい中心が高まりに出た。
東側に尾根が続いており、やや城址のような雰囲気が残っていた。
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