薩摩・大隅5



平松城岩剣城出水城紅葉城虎居城

平松城


姶良町【最寄り駅】JR日豊本線重富駅

島津義弘が岩剣城に入ったが、不便な故に麓の築城したのが、 当城である。関ケ原後も義弘はここにいた。 元文2年(1737)島津忠紀が越前島津家を再興し、重富と名付け、ここに入った。
現在は重富小学校となっており、野面積みの石塁が残り、 校門前は馬場だったようで道幅の広い道路となっている。

石塁1 石塁2

岩剣城


姶良町【最寄り駅】JR日豊本線重富駅

渋谷氏一族、祁答院良重が築城したと云われる。 天文23年(1554)岩剣合戦で島津忠将が鉄砲を日本で初めて戦闘で使用したことで 有名で、祁答院氏は開城した。
岩剣神社から続く道を登ると、大手口に辿り着く。 そこから入ると、途中石塁があったりして、 北の本丸の曲輪と、南の曲輪の間に出る。 本丸は数段の帯曲輪からなる縄張りである(左端)。 南の曲輪には石塁や土塁がよく残っている。 また、尾根伝いに深い堀切(右2)が数条残っている。

本丸 石塁1 堀切 石塁2

出水城


出水市【最寄り駅】JR鹿児島新幹線・肥薩おれんじ鉄道出水駅

建久年間(1190〜99)に和泉荘の弁済使下司職だった和泉小大夫兼保によって築城されたという。 その後、南北朝の頃に島津系和泉氏の祖、島津忠氏が出水城に入ったとされているが定かでない。 応永24年(1417)川辺松尾城での戦闘で五代直久が戦死し、和泉家は断絶した。 享徳2年(1453)島津氏10代忠国の弟用久が薩州家を興し、ここを本拠としたが、 文禄2年(1593)7代忠辰の時、朝鮮出兵中に所領没収となり廃城となった。(大系・現地説明板より)
城址の西側にある城山墓地公園に案内板があるが、城内には立ち入り禁止で入ることはできない。 水夫ヶ城、弓場ヶ城、住吉ヶ城、小松ヶ城、捨殿ヶ城、花見ヶ城(椙ヶ城)、梅ヶ殿と呼ばれる、 独立した曲輪群からなり、迫ノ口(大手)、霧降口、小松口、西ノ口の4つの口があり、 土塁、石積み、空堀、礎石など残るらしいのだが。
出水麓は比較的良く麓武家屋敷群が残っており、小学校の位置に御仮屋があった(右2画像)。


紅葉城(高尾野城)


出水市(旧高尾野町)【最寄り駅】肥薩おれんじ鉄道高尾野駅

詳細な歴史は分かっていないが、 島津氏の入国に反する反抗・南北朝の騒乱・秀吉の島津征伐にも使用されたと推測されている。 慶長4年(1599)太閤蔵入地が再び島津氏の領地なるや、 阿久根の地頭宮原左近将監景晴に修築させた。元和元年(1615)一国一城令により廃城になった。 その後、第二次大戦中に軍の防空壕となり、終戦後埋められ、シラスは採取され、跡形もなくなったという。 (現地説明版より)
公園となり、遺構は何もなく、立派な石碑と土台があるだけである。


虎居城


さつま町(旧宮之城町)

平安時代末期大前氏により築城されたという。 その後、関東より下向してきた渋谷氏の城となった。 戦国時代には島津氏の城となり、天正6年(1578)島津歳久が城主になった。(現地観光資料より)
平成18年の豪雨被害により河川整備の一環で川内川の分水路が作られ、一部遺構は消失し、 残った部分は川の中に残され渡ることもできなかった。 中学校付近(旧宮之城高校・おきたの城)は高台になっているが遺構らしいものは残っていないようである。
消失した部分は、塩の城、中の城か、その先の松社城や女中仮屋、八女壇は残っているものの、 渡ることができず断念。



前へ 次へ

このページの著作権は、作者に帰属します。 画像などの2次利用は御遠慮下さい。


戻る