鎌倉時代初期に島津忠久が薩摩、大隅、日向の地頭職として下向した際に、
家臣本田貞親が忠久に代わって入った。
現在は碑が立っているところが小高くなっているくらいで遺構はよく分らない。
薩摩氏が築城し、南北朝時代に総州家島津氏が城主となった。
その後、入来院氏、そして島津氏の直轄となった。
秀吉の九州征伐の際に大軍を前に300人で籠り、
守り通し、島津義久の説得で開城した。
川内駅の城址の一部らしいが、この平佐城の遺構はよく分らない。
城址碑は西平佐小学校にある。
指宿氏の鎌倉時代からの本拠地。頴娃地頭職であった頴娃忠永の次男忠光が
指宿氏を称して指宿地頭となった。
その後、阿多、奈良、相州島津彌寝、薩州島津、田代の諸氏の手に属した。
宮ヶ浜駅から少し北に行ったところにある。海に突き出ている。
城址を線路によって分断されている。本丸跡である松尾崎神社から、
北に曲輪、土塁の跡が多く、きれいに残っている。屋敷等があったのか、
かなり広い曲輪のようだ。
規模はかなり大きかったようだが、草が繁茂していて残念だった。
頴娃氏の室町期における歴代の居城。ポルトガル人アルヴァレスにより
ヨーロッパに紹介された。7代久虎の時期に5層の天守閣を作ったと伝えられる。
本郭から10郭までかなり遺構は残っている。
最近、発掘したのか本郭には石塁もある。
虎口や搦手、堀切、土塁など案内板もしてある程かなり整備されてあるが、
残念なのは、駅や町からどう行くのか案内が全くないことである。
遺構のある場所は限定されてあるが、
当時は矢筈岳全体を城とした、相当な規模だったようだ。
川辺氏が平安時代に築城。島津犬太郎の時に部下の松尾城の酒匂氏と戦いに及ぶ。
その後、島津家の外城になる。
現在は川辺小学校の裏手にある諏訪運動公園となっている。
外城制度の城山に当たるようだ。それぞれの城の跡は残る。
が、公園化されてしまい、ぼやけかかるのが残念。
平山城碑の杭を見付けるのはかなり困難を要した。
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