島津伊作家の居城。相州家を継いだ島津忠良、さらに本宗家を継いだ子の貴久が、
薩州家の実久に対抗するべくして拠った。その子の、義久、義弘、歳久、家久は、
ここで生まれた。
現在は公園となっているものの、多数の城からなっていて遺構は残る。
本丸跡と思われるところには、井戸跡や誕生碑などが建つ。
16世紀初めに築城された。
庄内の乱
(秀吉に昵懇になりすぎた島津家の家臣伊集院氏と主家島津家の確執が原因で、
伊集院忠棟は島津忠恒に殺されたのをきっかけに息子の忠真が蜂起した)
の際、都城城主伊集院忠棟の甥甚吉が在城し篭城し、
島津家の攻撃にも耐え、落城することもなく持ちこたえ、家康の仲介で鎮まった。
その後、廃城となった。
現在は忠魂碑が本丸に立つ。12の砦から成る複合的な城の本城である。
曲輪の跡なども残る。
城山の背後にあった無防備な場所であった。
そこで、砦などは築かれなかったものの、陣が置かれたりして、
夏蔭城と呼ばれるようになった。
西南戦争の際には、激しい銃撃戦が行われた。
現在は城山の裏手の住宅地とTV塔に挟まれた地に、その碑が立ってある。
遺構は特にはない。
貴久が東福寺城からこの清水城に拠点を代えた。
だが、この清水城も、平地にある内城へと移り、廃城になった。
現在は清水中学の裏手にある山で、薮が生い茂り、
その全貌を見ることはなかなか困難。
石塁が綺麗に残る箇所もあり、曲輪の跡なども一部残る。
貴久の頃、清水城から本拠地を移した。だが、家久(忠恒)の頃に鶴丸城へ移って、
その後、大龍寺が建てられた。
現在は大竜小学校となって、かつての面影はない。
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