江戸時代になって島津家久(島津忠恒)が内城から本城を移して、
幕末まで本城であった。背後に城山を控えた政治用の城。
西南の役では政府軍に惨々に砲撃された。
現在でも西南の役の際の銃弾の跡が石塁に残っている。
鹿児島県歴史資料センター黎明館が城跡に存在する。
島津義久が富隈城から移り死去するまで在城。 この舞鶴城は島津の外城制による麓の1つ。 隼人城(現、城山公園)を本拠として政治は麓の舞鶴城で執られた。
現在は国分小が城跡である。石塁と堀が残っている。
島津義久によって築かれた。秀吉に降伏した後に鹿児島の本城である内城を出
て、この城に移った。この後国分の舞鶴城に移った。
現在は神社があったりするが、石塁や曲輪の跡は存在する。
島津義弘が隠居の城として入った。ここも加治木城の麓にあたる。
その後、18代藩主島津家久も住んだ。
現在は加治木高校、柁城小学校になっている。
肝付氏の居城。伊地知氏の侵攻があったが、島津氏の助けで落城を免れた。
現在は、民家や家畜小屋などがあったりして、遺構はそれほどはっきりしない。
ここも、加治木館の詰の城といったところである。外城の1つ。
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