建武2年(1335)足利尊氏が斯波高経の長子家長を奥州管領として下向させ、
築城させた。斯波氏は16世紀前半に栄えたが、その後三戸南部氏との抗争で衰退し、
天正16年(1588)8月詮直の時に南部信直の侵攻の前に滅亡した。
その後、盛岡城築城に際し、南部利直が十数年居城とした。
寛文7年(1667)に廃城となった。(大系より)
北上川の西岸に位置する平山城で、山頂を本丸として(左端画像)、
若殿屋敷、姫御殿、天王平など名前の残る曲輪跡がある。
本丸の虎口のある南側の脇に南部時代の物だと思われる石垣が残る(右端画像)。
国道4号から行くと住宅地の間に小川が流れており、堀のようにも見えた。
鎌倉時代初期刈田系和賀氏の弟小田島氏が和賀氏を称し、
平常居館である白鳥館を本拠とした。
その後、黒岩和賀氏の本拠となり、平山城の周囲に屋敷群を設けた。
特に東側には現在、「宿」と呼ばれる城下集落が形成されるまで繁栄した。
が、天正18年秀吉の小田原征伐に参陣せず、領地没収の憂き目にあった。
浅野長政の管理下となり、軍勢が帰還してしまうと、
和賀・稗貫の和賀氏の残党が蜂起し、二子城を奪回した。
それも束の間、翌年には蒲生氏郷により攻略され、
薩摩守義忠は逃げる途中領民に殺害された。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いの際に、
南部勢が最上に出陣中の留守をうかがい、義忠の息子忠親が二子城を拠点に挙兵した。
鳥谷ヶ崎城(花巻城)への攻撃にしくじり、反撃に遭い、
二子城は落城、岩崎城へ逃げ、滅亡した。
忠親は、伊達氏により殺害されたとも自害したともあり、
挙兵自体伊達氏の謀略さったという説もある。(現地案内板・大系より)
本丸跡には八幡神社があり、境内の北側に広い削平地が残る。
その北側に堀切?土塁らしい跡がある(左3画像)。
神社のある山の東側は住宅地等となっているが、
しっとりとした雰囲気のある街並で歴史を感じる。
白鳥社のある場所が白鳥館跡と云われる(右端画像)。
平安時代、安倍氏の砦であったが、源義家により落城したという。
その後、鎌倉時代建仁2年(1202)に、
奥州総奉行兼検非違使の葛西清重の家臣千葉明広が地頭職に任ぜられ、
姓を柏山と替え、13代明吉まで続き、天正18年(1590)小田原に参陣せず、
葛西氏とともに追放となった。(大系・現地案内板より)
最近(平成23年)になって案内板など設置され整備されたようで非常に見易い環境であったが、
猟銃の音(疑似音?)が断続的に鳴り響き、生きた心地がしなかった。
城址は、本丸である、柏山館、
道路を隔てて西側にある二の丸であった松本館(時間なく未確認)、
柏山館から空堀を挟んで南側にある三の丸であった生城寺館からなる。
同じ舌端状の台地上にあり、下った所に位置する県南青少年の家の辺に武家屋敷群、
みどりの郷の辺が宿と呼ばれる城内集落であったという。
柏山館と生城寺館の間にある空堀はかなり深い(左3画像)。
柏山館の一部はりんご畑となっている。
慶長17年(1612)南部利直が南に隣接する伊逹氏を監視させるために築城させ、
翌年江刺長作隆直を新堀館から移し、2千石の領主とした。
盛岡城や三戸城を縄張りした野田内匠直盛によるものと伝わる。
寛文10年(1670)南部重信の代に不要となり取り払われた。(大系・現地案内板より)
現在、旧宿場町の裏手の館山公園となっている。
駅から歩いて行くと、東館とその東側の堀切に出る(最左画像)。
東館のすぐ横に御本館、さらに中館、さらに一段下がって西館となる。
曲輪群の北側には空堀があり、現在は道路のようになっている(左4画像)。
また御本館と中館の南側に大手門跡があり(左3画像)、
大手道はここから西へ徐々に標高を下げ、桜丸と呼ばれる曲輪を通って、宿場の方へ下ったいたようである。
また西側にも空堀が回っている(最右画像)。
築城した時期は不明であるが、稗貫氏の居城であった。
小瀬川城から当城へ移り、その後享禄年間(1528〜32)鳥谷ヶ崎城へ移った。
その後も、稗貫氏の一族本館氏が住したという。(大系より)
現在は本館近隣公園となっているが、全く住宅地化され痕跡は何もない(左画像)。
高台から下った東側に、深い堀が残っている(中央、右画像)。
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