南北朝以前の築城と推測されている。
鎌倉時代には千葉氏が付近を治め、
それ以後は、葛西氏の傍流の江刺氏が治めていた。
が、江刺氏と葛西氏に争いが起き、
最終的に明応4年(1495)の戦いの後、葛西政信の孫、
葛西三河守重胤が城主となった。
秀吉の奥州仕置で葛西氏が滅亡すると、
重俊も天正19年(1591)に討ち死にし、
父親の重恒は南部信直に属し、新堀城に移った。
その後、木村伊勢守吉清の家臣溝口外記が入城するも、
天正18年(1590)一揆に遭い殺害され、
伊達氏家臣桑折摂津守が入城した。
その後、万治2年(1659)岩城宗規により大改修が行われ、
明治維新まで岩城氏が城主であった。
本丸には八幡宮があり、あじさい園となっている。
東側に人首川が流れ、渓谷のようになっており、
城域は本丸から南東へかけて曲輪が展開されている。
本丸は土塁・空堀により囲まれ(左1、2画像)、
また、空堀(右画像)を挟んだ展望台のある曲輪の前には大きな空堀が残っている。
その下の曲輪は駐車場や、高校、小学校になっている。
藤原経清とその子清衡の館跡である。
清経は、朝廷軍と安倍氏の戦いの際に、始めは朝廷軍の下に戦ったが、
途中から義父安倍頼時に味方し、最終的に康平5年(1062)厨川柵で敗れ、
処刑された。清衡は清原氏の下へその母と移った。
20年後、後三年の役で勝利した後、豊田館に帰り、
康和年間(1099〜1103)に平泉に移った。(現地案内板より)
江戸時代安永3年(1774)銘の石碑がある(右画像)。
遺構はないが、高台となっている。
葛西氏家臣小野寺式部丞胤勝が築城したといわれる。(現地案内板より)
現在、永泉寺の裏手の墓地や畑となっている辺りが城址と推測されている。
詳らかな歴史は分らない。
山目中学校が城址である。
志波城が水害に遇うので、弘仁4年(813)に文室綿麻呂によって築城された。
2年前の弘仁2年に既に爾薩体・爾伊二村を征夷し終えており、
9世紀中頃には終焉を迎え、胆沢城に移管されたと推定されている。
(『徳丹城』より)
現在は、城跡公園、矢巾町歴史民俗資料館と小学校となっており、
政庁跡は柱の位置が再現されている。
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