伝承では、延暦年間(782〜806)に坂上田村麻呂、康平元年(1058)には熊谷次郎直秀、
文治年間(1185〜90)には平泉藤原氏家臣照井太郎高春が住したという。
延慶2年(1308)葛西式部大輔清秀が居城とし、清水氏を称した。
天正年間末期(1573〜92)までこの地に住し、清水信晴は桃生郡糠塚で自刃し、葛西氏とともに滅亡した。
文禄年間(1592〜96)伊逹氏一族の留守政景が利府城より移り、元和の頃(1615〜24)まで居城とした。
(大系・現地案内板より)
現在は八幡神社があり、その西側に土塁(左画像)、北西側にも土塁があり、
北西に伸びる尾根には堀切がある(中央画像)。
南側の神社の参道側は腰曲輪のような平坦面が数段ある(右画像)。
工藤氏の支流の田頭氏の居城で、葛巻河内信祐の二男が第二の田頭氏を創設し、
田頭右衛門佐直祐と称して天正10年(1582)に1千石を領していた。
直祐の代に築城されたと推測されている。(現地説明板より)
田頭にある館山にあり、主郭の北側に堀切があるが、遺構と呼べるものはこのくらいである。
公園化されているものの、南北に削平地もあり、郭の跡のようである。
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